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試行錯誤
家に帰ってから早速、眺流に贈る絵の試し描きをはじめた。
画材ばかり置かれている自分の部屋は、独特な絵の具の匂いに満ちている。使われた画材たちや殴り描きされた絵は床に散乱している。僕はそれを一度たりとも間違えて踏みつけたことはない。
机の上に何枚か紙を広げる。絵を描くときにいつも使っている万年筆用の色インクを数種類出して紙に塗ってみた。僕が使うインクは青系統のものが多い。夜の海と星空を描くには、どうしても消費せざるを得ない色だ。
眺流は即興で描いた絵でもいいと言ってくれたが、眺流への贈り物だ。手を抜きたくはなかった。
僕はこの短い人生の中で、親友の眺流を一番信用していた。
自分が何者であるかは、自分が一番理解している。自由人。変人。なにを考えているか分からない、とっつきづらい人間。周囲の評価はそんなもので、現に僕も、自分自身をそのように評価していた。
僕の世界は、誰にも理解されなくていい。
そんな僕に、正面からぶつかってきたのが眺流だった。
小学生の絵画コンクールで僕の絵を見て感銘を受けたという。ただそれだけで僕に近づいてきた。僕の世界を本当の意味で分かろうとしてくれたのは、後にも先にも彼だけだ。両親にも腫れもの扱いされている僕に。マスターにも才能を恐れられている僕に。
彼がはじめて、僕の世界を心の底から称賛してくれた。今は、彼だけではなく僕の絵を高く評価してくれている人はそれなりにいるらしいが。
贈り物なのだから、大きいキャンバスに描くわけにもいかない。そうなると、画材店に置いてある水彩紙を使うのが無難か。水彩紙を使っても紙がよれることがあるが、水貼りをすれば多少まともになるだろう。
試しに小さく切った試し塗り用の水彩紙を取り出す。いつものとおり万年筆インクで塗ってみるが、しっくりこなかった。
万年筆インクの濃さが、眺流のイメージに合わない。
「違う……。眺流はもっと優しい色をしている」
画材を変えれば色が出せるかもしれないと思い、水彩絵の具を取り出して塗ってみる。今度は優しすぎる。水彩絵の具の淡い色合いは、眺流を表現するには鮮明さに欠けるのだ。
これはじっくり考えなければいけない。最近スランプ気味なのも相まって、頭を悩ませる事柄が一つ増えてしまった。
煮詰まってきたので、息抜きに描きかけの絵を描こうと机を離れる。部屋の隅に置いたキャンバスの前に椅子を運んで座った。スタンドにかけられたキャンバスには、油絵の具で塗りたくられた夜空と海の絵があった。何度も塗り重ねているが、どうにも納得のいく夜空が描けないのだ。
最近、どうにも納得のいく絵が描けない。
少し絵と離れてみるのもいいかもしれないが、他のことをしようとしたって、僕の頭の中はいつも絵のことでいっぱいだ。他のことをやる気力なんてなかった。
僕の世界には、夜と星空と海しかない。
僕がそれらに執心するようになったのは、六歳の頃からだったか。
覚束ない小さな身体は真冬の海に投げ出された。
真っ黒な夜の海に、たった一人で。
僕がなぜ海難事故に遭ったのか、理由は定かではない。しかし、僕は冬の海に、ほんの短い時間ではあったが投げ捨てられたのだ。それだけは事実だった。
凍える視界の中、僕の頭上にあったのが幾万もの星々だ。
上を仰げば小さな輝きたちが河をつくっていた。流れていくその星たちは赤にも黄色にも白にもちかちかと瞬く。黒い紙にセルリアンブルーの絵の具をぼかしたような幻想的な世界がそこにはあった。
あの日から、僕の魂は夜の海にとり憑かれている。
僕が描くのは夜の海と星空。そこに機関車や宇宙船などのほんの少しのアクセントを加える。たったそれだけだ。あの日から、僕はもうずっとその絵ばかりを描いている。けど描いても描いても、あの夜を再現できなかった。年齢を重ねるたび、どんどんと再現できなくなってきた。あの日から離れれば離れるほど、僕の絵は理想から遠ざかっていった。ここ数か月、ずっとスランプだ。
「なにがダメなんだ。画材が合わないのか? 油絵の具の重厚感だったら、描けると思ったのに……今度はアクリルガッシュで描いてみるか……」
今日も絵の具をぶちまけ、キャンバスに塗り重ねていく。それでもあの夜を再現できない。あの夜が再現できなかったら、僕は――。
「……そうか」
突然ひらめいた。眺流に贈る絵で使う画材のことだ。僕は立ちあがって、床に置きっぱなしにしているアクリルガッシュを手に取った。
アクリルガッシュという絵の具は水に溶けるが、乾くと耐水性になる。水彩絵の具を使うよりも発色がよく、重ね塗りもしやすい。この画材であれば、眺流を表現できるかもしれない。試しに塗ってみると、淡く、それでいて鮮明な青が目に飛び込んできた。
「そうと決まれば次はテーマだな……」
もう一度机に戻り、ノートを取り出す。僕が描くものは過去から現在までずっと夜の海と星空だが、それでもテーマを決めている。テーマを決めないと、色合いや構図が定まらないからだ。
眺流に関連するテーマがいいだろう。ノートに鉛筆で意味のない線を引いていると、部屋の外から母の声が聞こえた。
「雪野、ご飯よ」
「はーい」
時計を見れば、時間は七時半を過ぎた頃だった。今日は夕飯の時間がいつもより十五分遅い。父は今日も残業で遅いのだろう。繁盛期のためか、最近は母と二人で食事をとることが多かった。
ノートを開きっぱなしにして部屋から出た。部屋の外は、おいしそうなカレーの匂いに満たされていた。
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