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半分
そうして、眺流の誕生日。
ちょうど学校が休みの土曜日、僕や眺流、マスターは午前中からカフェでショーの準備をしていた。開始は二時からだ。開始時間までまだ三時間ほどの余裕がある。眺流たちが会場を設営している間、僕は家から持ってきた画材の点検をしていた。
普段使っている筆も水彩紙も、作業台もある。絵の具もある程度は揃っていたが、白の絵の具だけ忘れてきてしまっていた。マスターから借りるのも手だが、絵の具の種類が変わるだけで印象はがらりと変わってしまう。
「ごめん、忘れ物した。取りに戻るよ」
「そう言って逃げんなよ。もういろんな奴に宣伝しまくったんだからな」
「逃げないって。変なところで心配性だなあ、眺流は」
「授業を平気でサボるお前が相手だぞ。心配もするだろ」
「だって授業は面白くないから」
軽口を叩く眺流から逃げた。眺流の説教は時折長い。普段あれだけ無愛想で口数少ないのに、説教を吐くときだけなぜあんなにも饒舌になるのか。
外に出ると、冷たい秋風が頬を切り裂いた。十一月二日、記念すべき眺流の誕生日は、生憎の曇り空だった。
今日は珍しく、母が仕事で父が休みだった。両親は僕の絵に興味を持とうとしない。幼い頃はよく褒めてくれていたが、今はどこか避けているふしがあった。僕の絵を、気味の悪いものだと思っているのだろう。目は口ほどに物を言う。両親は僕の世界が嫌いなのだ。だから、両親に見てほしいと思うこともない。人が嫌がっているものを押しつけたくはなかった。
家に戻り、のんびりと部屋へ向かう。時間はまだまだあるから急がなくてもいい。なにも考えず自分の部屋のドアを開けた。
部屋には背を向けた父がいた。
「……父さん? どうしたの?」
両親は滅多に僕の部屋には入らない。覗くこともなければ開けることもない。僕の部屋に父がいる光景は、どこか異様だった。
父は僕を振り返る。父の顔面は汗にまみれていて苦しそうだった。そして、真っ白になった唇を震わせていた。
描きかけのキャンバスが、無残に床に散らばっていた。僕が苦心していた油絵だった。
父の右手には、ナイフが握られていた。
「……っ!」
僕の叫び声は喉につっかえて潰れた。その代わり身体は勝手に動き、バラバラになった絵を拾い集めていた。
なんで、なんでこんなひどいことができるんだ。僕の海が、僕の夜空が……。
「なんでこんな……! どうしてだよ父さん!」
鼻の奥がツンとして、声がみっともなく震えた。バラバラになった絵を抱えて膝をついている僕を、父は揺れる目で見おろした。
「それはこっちのセリフだ。お前は……なんて絵を描いているんだ」
父は額にびっしり張りついた油汗を袖で拭い、握りしめた拳をぶるぶると震わせた。
「こんな、鬼気迫る恐ろしい絵……まるで死を望んでいるみたいじゃないか!」
言い放った父の顔は血の気が引いて真っ白だった。父は、僕に怯えていた。
僕はうつむいて、床に転がってあった白の絵の具を手にする。そしてバラバラになった絵を抱きしめたまま家を飛び出した。
外は雨が降っていた。
僕の絵は、人に恐怖を与える絵だった。父の態度がそう言っていた。僕の絵は、人を幸せになんかできないのだ。
そんな僕が、本当に眺流のために絵を描いていいのか。
父から逃げるように走った。父は追いかけてこないのに、足をとめられなかった。やがて、体力が尽きて足をひきずって歩いた。
カフェへ向かうのが億劫だった。このままとんずらしよう。どうせ、僕の絵は父に切り刻まれるくらいの価値にしかならない。だけど、自分の絵は捨てられない。バラバラの絵を抱きしめたまま、踵を返そうとした。
「雪野!」
よく知った声が聞こえた。
眺流が前方から駆けてくるのが見えた。
逃げたかったが、棒立ちになって固まってしまった。眺流は僕をすかさず傘の中に入れた。
「眺流……なんで」
「主役にボイコットされると困るからって、マスターが」
僕はどうやら相当信用されていないらしい。眺流はすっと目を細めて、声音を低くした。
「……その絵、どうした?」
「ああ、これは……」
説明しようとして、言葉がつっかえた。父の仕業だと言えば眺流は怒り狂うだろう。かといって、自分で切り刻んだとは言いたくなかった。眺流は僕が絵に執心しているのを知っているし、何より僕のプライドがそんな言い訳を許さなかった。眺流以上に自分の作品を愛しているのは、僕自身だから。
普段なら言い訳など湯水のごとく口から流れ出るのに、頭がまわらなかった。
「……まあ、ともかくだ。カフェに戻るぞ」
「いやだ」
「まーたサボりか? お前は本当に……」
「いやなんだ」
首を横に振ってうつむいた。自分の暗い影が足元を覆っている。太陽は雲から顔を出していないのに、僕の足元は真っ黒だった。
僕の絵は誰かを傷つけてしまう。眺流にそう言いたいのに、言葉にしてしまえば軽くなってしまう気がした。
「人に見られるのがいやなのか?」
黙りこくっていると、眺流が絵の破片の一つを僕の手から抜き出した。
「半分持つ」
力の抜けた僕の手から言葉通りバラバラの絵を半分持つと、眺流は傘を持ちなおして言った。
「誕生日プレゼントくれるって言ったのは誰だったか」
「……僕だ」
「約束は守れよ」
顔をあげると、微笑んだ眺流の目と合った。僕はやはり、彼を裏切れなかった。
結局カフェへ戻り、ドローイングショーを開催することになった。
時間が近づくにつれ、来客が増えていく。最終的に十三人の観客の前で披露することになった。
水彩紙に描くので、手元をプロジェクターで映している。知らない人たちの前で絵を描くのははじめてだった。緊張はしていなかった。絵を描くとき、僕の心は湖畔のように静かだ。
「この度はありがとうございます。さて――」
マスターの挨拶が遠くに聞こえる。僕の精神は深海の奥深くに捉われていた。
深海は暗く、光は届かない。生き物が住める限界を超えた神域。宇宙と似たその場所は、果たして宇宙と呼べるのか。
「約束は守れ」と言った眺流の声だけが深海に響く。彼の精神は深海のように深く、底が見えない。ただ、暗がりを望む僕には居心地がよかった。
今回だけだ。今回だけ、僕は人のために絵を描く。僕の世界を望む彼に、僕の世界を届けてみせる。
それで怖がられても――、いつもどおりの日常が待っているだけだ。僕の日常も変わらず、彼の日常も変わらない。誰に怖がられても、僕は僕であるしかない。
そう切り捨てられたらよかったのに。僕はもう、親友を手放せそうにはなかった。
君はずるいやつだよ、眺流。この僕に友情を抱かせやがって。本当に迷惑だ。
僕の筆は青色に染まる。筆の先が脈動している。
そうして僕は、白い紙に色を叩きつけた。
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