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火曜日の朝、玄関のドアを開けると、床に白いチョークで「7」と書かれていた。
まだ脳のほとんどが寝ている状態のまま、習慣に操られて玄関から出た清水俊哉は、「はいはい7ね、了解」と自然に受け入れそうになった。数秒の後、おかしさに気づいて二度見をした。
マンションの両隣の玄関先も見てみたが、どうやら清水の家だけらしい。イタズラ書きか? だとすれば誰が?
鉄の塊のように重い頭は回転してくれない。とりあえず革靴の底を擦り付けて「7」が消えるか試してみる。白チョークの「7」は少しずつ薄くなっていった。消えたわけではなく、白が薄ぼんやりと広がった。さらに足に力を込め、清水は綺麗にしようと試みた。
まずい、こんなことをしていたら、会社に遅れてしまう。時計を確認したら、いつもの電車まであと9分。普段は歩いて11分かかる。走らねば。
今日に限って全ての横断歩道で赤信号に足止めされながら、駅を目指して走った。朝食を取らない清水の脇腹はズキリと痛み始める。曇天の火曜日の出来事だった。
水曜日の朝、玄関のドアを開けると、床に「14」と書かれていた。
昨日に続き今日もイタズラするなんて、最低な奴だ。小学生みたいな嫌がらせをしてくる人間に心当たりは無い。自分を狙った犯行ではなく、無差別なら余計に気持ち悪い。
清水はそんな風に考えながら、薄くなった「7」の上に濃く書かれた「14」を革靴の底で擦った。昨日の「7」をかき消した名残もあって、玄関先がうっすら白くなってしまった。
両隣の玄関と比べて、清水の玄関だけ妙に白い。夜中にバーの入り口がスポットライトで照らされているのと同じで、清水の部屋がお客を誘っているようだった。
だが気にしている時間は無い。時計を確認したら、いつもの電車まであと8分。清水は走る。雨雲が迫る水曜日の出来事だった。
木曜日の朝、玄関のドアを開けると、床に「28」と書かれていた。
昨日までに7と14を擦って床が白くなっていたため、「28」を読み取るのは少し難しかった。
その上、初日の「7」を見たときほどの驚きは無かった。むしろ数列への興味が湧いてきている。
7、14、28。なるほど、1つ前の数字の2倍を書くルールらしい。だとすれば明日は56か?
清水は慣れた足つきで「28」を擦って薄くした。玄関の前がさらに白くなったが、土曜日か日曜日に掃除すればいいや、と考えて会社へ向かう。曇り空の木曜日の出来事だった。
金曜日の朝、玄関のドアを開けると、床に「39」と書かれていた。
清水は今日、普段より早く起きると、すぐに玄関先を確認しに行ったのだ。予想どおり「56」と書かれているか確かめたい気持ちでソワソワしていた。しかし実際は「39」であり、予想は綺麗に裏切られた。
7、14、28、39。清水はインスタントコーヒーの粉をスプーンでカップに移しながら、数列の意味を考えた。
隣り合う数字の差は、7、14、11。法則は無さそうだ。
隣り合う数字を足したらどうだろう。21、42、67。こっちも法則は無さそうだ。
沸かしたお湯をカップに注ぐ。あれ? 粉はスプーン何杯入れたっけ? まあいいか。
できあがったコーヒーを飲むと、清水はむせた。パッケージに書かれた分量よりも多く粉を入れてしまったため、エスプレッソよりも濃いコーヒーが出来上がったのだ。カップを傾ければ、溶け残った粉が底にべっとりと貼り付いている。
濃厚なカフェインは、清水にとって電気ショックだった。朝特有のぼんやりした頭が覚醒し、身体がキビキビと動くようになる。10分後くらいに手が震え始めたが、インスタントコーヒーを非合法の薬物に指定することの是非について、脳内でディベートし始めるほどには思考回路が生き生きしていた。
ディベートを途中で打ち切り、玄関の数字について再び考える。法則は分からないが、数字が増えているのは確かだ。明日はきっと40以上の数字が来るのだろう。
清水は玄関のドアを開け、再び「39」と見つめ合った。いつものように革靴の底で擦って「39」を薄くしながら、「サン・キュー」と声に出して読んでしまい、39とThank youの読み方が同じであることに気づいた。
イタズラの犯人に聞かれていたら嫌だな、とは思うものの、ちょっとした楽しみができたのも事実ではある。青空がどこまでも高く続く金曜日の出来事だった。
土曜日の朝、玄関のドアを開けると、床に「1」と書かれていた。
清水の「40以上が来る」という予想は、自然数の中で最も小さい数字「1」が書かれたことによって裏切られた。昨日導いた「数字は徐々に増えていく」との仮説も、完全に否定された。
土曜日なのに普段より少し早く目を覚ましたのは、玄関の前に書かれる数字を確認するためだった。確認した後、二度寝をすれば良かったかもしれないが、粉を入れすぎないようにスプーンの回数を数えながら、清水は結局インスタントコーヒーを淹れている。
ここまでの数字は、7、14、28、39、1。3日目までは増えていたのに、今日は1と減っている。なぜ突然の1?
何かが一周して最初に戻ったのだろうか。例えば、1月、2月、……、12月、1月のように。月は12個しか無いが、39個以上ある何かが一周したのかもしれない。
しかし、清水には39個以上ある「何か」が思いつかなかった。
ダメだ、皆目分からない。ふと、インスタントではなく、コーヒーを豆から挽いて淹れてみたいと思った。本格コーヒーを飲めば頭の回転が良くなるような根拠の無い動機が芽吹いていた。
気分転換にもなるだろうし、今日は豆を挽く機械でも探しに行ってみようか。そう考えた清水はいつもどおり靴底で「1」を擦ると、その足でコーヒーミルを探しに出かけた。朝なのに白い月が居座る土曜日の出来事だった。
日曜日の朝、玄関のドアを開けると、床に「15」と書かれていた。
この日、清水は平日より1時間も早く起きた。犯人が来るより早く起きることができれば、捕まえられると思ったからだ。
捕まえたいような、今のまま数字を書き続けて欲しいような、どっちつかずの気持ちではある。しかし、今後も玄関先を汚されるのは良くないと思われた。マンションのため各部屋のドアが横一列に並んでいる中、清水の玄関先だけが小麦粉をぶちまけたように白いのは恥ずかしかった。
イタズラをやめさせ、数字の意味を問いただすためにも、犯人を捕まえなければならない。そうして平日より1時間も早く起きた。
それなのに、既に数字は書かれていた。「15」だ。
7、14、28、39、1、15。1から15へまた増え始めている。ならば「徐々に増える」という法則は正しいのかもしれない。ということはやはり、39個以上ある「何か」が一周して1に戻り、何らかの法則に基づいて増えているのではないか?
あるいは語呂合わせだろうか? な、いよ、にわ、みく、い、いご。全く意味不明だ。
それ以外の法則は、清水には思いつかなかった。また明日書かれる数字を見てから考えようと気分を切り替え、雑巾を取りに行く。謎解きが楽しくなってきたとはいえ、玄関先の白さが見て見ぬふりをできるレベルを上回ってきたからだ。
雑巾を濡らすと、水の冷たさが指の骨まで届くようだった。玄関から外へ出れば、部屋着の内側に冷たい空気が入ってきた。
いつのまにか、こんなにも寒くなっていたのか。拭き掃除が終わったら、新品のミルを使ってコーヒーを淹れてみよう、と清水は空を見上げた。雲一つない冷え込んだ日曜日の出来事だった。
月曜日の朝、玄関のドアを開けると、床には何も書かれていなかった。
それが普通なのに、清水はがっかりしていた。
昨日の15でおしまいなのだろうか。そうだとすれば、数字は7、14、28、39、1、15の6つ。ここから何らかの法則を導かなくてはならない。
あるいは、イタズラの犯人に今日は来られない事情があるのか。単なる体調不良かもしれない。昨日はなかなか冷え込んでいたし、風邪を引いてしまった可能性もある。
はたまた、昨日掃除したのが悪かったのか? 数字の蓄積による白いチョークの跡があまりに汚いので掃除をしたが、犯人は何らかの理由で幻滅してしまったのではないか。
何らかの法則に何らかの理由。清水には分からないことが多すぎた。
家を出るまで、30分以上の時間がある。清水はミルとコーヒー豆を出してきて、数字についてぼんやりと考えた。窓に結露が垂れる月曜日の出来事だった。
火曜日の朝、雲の上では勝負が決していた。
「どうして気づかないかなぁ!」
悪魔は言った。
「よいではありませんか、欲が無くて」
天使が言い、
「夢が無い、の間違いだろう。これだから他人の落書きを進んで掃除するような奴は」
悪魔が答えた。
「今回のゲームは私の勝ちですね。清らかな魂は天国行きのリストに振り分けましょう」
「次だ次! 俺が勝つまで続けるからな。地獄を渡り歩ける欲深い魂の持ち主はどこにいるんだ?」
悪魔は眉間に短く深いシワを2つ作り、腹立たしそうに腕を組んだ。
「だいたい、不規則な6個の数字と来たら、ロト6の当選番号に決まっているのに! 夢が無い男だな。あの数字でくじを買えば、1等の2億円が手に入るんだぞ!」
「ギャンブラーなら『神の啓示』だとピンと来るかもしれませんが、清水さんは宝くじを買ったことが無いようですからね。無欲なのでしょう」
天使と悪魔は雲の端から人間界を覗いた。家を出るまで時間が余った清水は、鼻歌を歌いながらコーヒー豆を挽いている。
「チャンスを逃したことにすら気づかずに歌なんか歌ってやがる。善人なんて何も手に入れられないバカばっかりだ」
「一時の2億円より、案外、朝が来るのを楽しみにする暮らしの方が、価値が高いのかもしれませんよ」
天使は笑い、悪魔は歯ぎしりをした。普通の火曜日の出来事だった。
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