『彼』の場合

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 女がいる。そう思われているのは知っていた。  あいつはバカだ。底なしのアホだ。  どこまで健気ぶるつもりかは知らないが、相手を好きなのは自分だけだと思い込んで今日も勝手な妄想を膨らませている。  俺には寝てくる女なんていない。少なくともあいつに好きだと言われてからは一度だって、別の相手を抱いたことはない。  過去、自分の女遍歴が酷かった自覚はある。だからあいつが俺を信じないのも仕方がないと言えば仕方がない。  しかしこの現状はあんまりだ。  あいつとここで同居のような生活を始めてからだいぶ経つ。おかげで俺は日々生殺しに遭うハメになった。  正直言えばあいつはその辺の女なんかよりもよっぽど好みで、そんな相手が同じベッドで真隣りにいると言うのに、背を向けて眠るその体には指一本触れた事がない。  浮気を疑われている。疑われている事を分かってもいる。  誤解を解きたいのは山々なのだが、しかし弁明する機会をあいつは俺にくれないようだ。  誰と会っていた。どこに行っていた。そんなもんでいい。  真夜中に帰った俺にたった一言疑惑の言葉を投げつけてくれさえすれば、仕事をしていたとか、上司から酒の席に付き合わされていたとか、ありのままの事実を話せる。  身の潔白を証明する術だって持ってはいるが、聞かれてもいない疑惑に対して自ら弁明を始める事ほど怪しいものはないだろう。  あいつの誤解は甚だしい。俺は相当酷い男だと思われているに違いない。  そこまで理解していて体を強要できるほど、俺は節操のない人間でもなかった。  生憎口が立つ方でもない俺にだってもちろん非はある。けれどそれ以上に、無意識的なあいつの仕打ちはかなりの程度で残酷だ。  優しい言葉の一つも掛けてやれないくせに、欲を含めたこの手で触ったらあっさり拒絶されるだろうか。  そもそもあいつはどういうつもりで、この部屋に居座っているのだか。そこからまず理解できない。  喰ってくれとでも言わんばかりに寝姿を晒すあいつは、俺が毎晩どれだけ耐えに耐えているかを知ろうともしない。  決して男が好きな訳じゃないあいつが純粋に俺へと向けてくる好意は、果たして俺があいつに対して抱く感情と同じ種類のものかと思うと、怖かった。  抱きたいという欲求は日を追うごとに強くなっていく。少しでも気を抜けば隣で眠るあいつを組み敷いていそうで、思春期のガキみたいな妄想に駆られる自分に毎晩毎晩呆れ果てた。  残業を増やしたのも、飲みの誘いに首を横に振らなくなったのも、それらの原因は全部あいつだ。  少しでも視界から遠ざけておかなければ、俺のためにこれでもかと尽くしてくるあいつを押し倒してしまう自信がある。  万一嫌われでもしたら、その時点で全てが終わる。それだけは避けたかった。
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