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「先輩、コーヒー飲みませんか」
「俺紅茶の気分」
先輩は定位置のソファーの左側に座って、ビジネス雑誌を読みながらそう言った。いつもめんどくさいと言いながら仕事に行くくせに、休日にもインプットを欠かさないからすごいなあと思う。表紙に集中力を高めるコーヒー特集なんて怪しい見出しがあったから絶対コーヒーの気分だろうと思ったのに、やっぱり意見は合わない。
「……僕たちってほんと三ヶ月くらいで別れそうですよね」
僕は赤い電動コーヒーミルの前から戸棚のまえに移動して、紅茶の茶葉を入れている缶を取り出した。
「一ヶ月もてばいいほうだろ」
十年経った今も、僕たちは同じ話をしている。あのときは聞く度に悲しくなる会話だったのに、今は嬉しくてにやけてしまう。
本当は、つきあいはじめて明日で十年だ。先輩は知らないだろうけれど。
一緒に暮らしはじめて気づいたのだが、先輩は意外とこだわりが強いわけではないようだ。部屋に置く家具も全部僕が選んだし、夕飯になにをつくっても美味しいと言って食べるし、僕がなにか訊いた際に「なんでもいいよ」と返ってきたときなんか、びっくりして声が出なかった。
「でも最近気づいたんですけど、先輩って、意外とこだわりが多いわけではないんですね……」
全部自分で決めたいタイプなのだと思っていた。住む場所も、家具も、一緒に住む相手も。僕が意を決して一緒に住みたいと言ったときに一発で了承してもらえたのなんて、奇跡としか思えなかった。
「今さら気づいたの?」
カチ、とお湯の沸いた音がした。遅れてふわふわと白い湯気が立ちのぼる。早く紅茶を淹れたいのに、キッチンカウンター越しに近づいてきた先輩が、ばかだな、と言いながら僕の頭をくしゃくしゃと撫でるから動けない。昔からやめてくださいよと言ってるのに、ぜんぜんやめてくれる気配がない。
「俺にこだわりなんてほとんどないよ。でも、ずっとおまえと違う意見言ってたのは」
先輩は僕を見て意地の悪い笑みを浮かべた。
「おまえの表情がころころ変わるのがおもしろくて」
「なんですかおもしろいって……」
僕が口を尖らせると、先輩はおもしろいだとちょっと違うか、と小さく呟いた。そして、僕をまっすぐに見つめて
「おまえのそういう顔がすごく好きだから」
と言う。好きだと言われたのは初めてだった。僕はまた顔を綻ばせることしかできなくて、先輩はまたくしゃくしゃと僕の頭を撫でる。やっぱり先輩はずるい。
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