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「これで最後ね」
あかねはそう言って、部屋の隅に一つだけ残ったダンボール箱を指さした。僕はその人差し指に従って、もはや何を詰めたのかも覚えていないダンボールを玄関へと運んだ。
「ありがと。助かった」あかねが礼を言う。
「いつものことだから」
あかねの父親は海外へ単身赴任しているため、家には男手がない。なので、力のいる作業が必要な時には近所に住んでいる僕が呼ばれるのだった。
がらんとした部屋を見渡すと、ふと寂しさがこみ上げる。
「本当に、引っ越すんだね」
僕はそう言いつつ、同時に後悔した。何を当たり前のことを聞いているのだろうか。
「ええ」
「引っ越し日はいつだっけ?」
「来週の金曜日」
あかねは目を細めて窓の外を眺めながら答える。
普段はどこか冷たいところがある彼女だが、この時は少しだけ寂しがっているようにも見えた。気まずいような、それでいてどこか甘ったるいような、そんな緊張を伴った沈黙が、からっぽになった部屋を満たしている。
「二人とも、作業が終わったら降りてきて」
階下からあかねの母の声が聞こえてきて、あかねはだるそうな声で返事をする。僕たちはのそのそと何もない部屋から歩き出す。
階段を降りた先にはピアノが置いてある部屋があった。あかねはそれを一瞥もせずに通り過ぎようとする。僕は立ち止まってそのピアノを眺めた。
楽器に疎い僕はこれがどれほど価値のあるものなのか分からなかったが、そこそこの値打ちのあるものに違いなかった。
「これ、どうするの?」僕は尋ねる。
「捨てる。だって、もう弾く人がいないもの」あかねは振り返りもせずにそう言った。
君がまた弾けばいいじゃないか——。僕は喉元まで出かかったその言葉を、何とか飲み込んだ。
僕にはわからなかった。
あかねがピアノをやめた理由も、あおいが死んでしまったことをどう思っているのかも。
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