オンライン・メガネと狢(むじな)

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 二十一世紀末の話である。  あるIT商社のサラリーマンが、残業帰りの深夜に赤坂の紀伊国坂(きのくにさか)を通りかかった。  左は紀州邸(きしゅうてい)築地塀(ついじべい)、右は(ほり)。そして、濠の向こうは彦根藩邸(ひこねはんてい)森々(しんしん)たる木立(こだち)で、しかしサラリーマンが鼻にのせたオンライン・メガネを外してみると、木立以外はただの更地(さらち)であり、自分の影法師(かげぼうし)が怖くなるくらいの物寂しさであった。  ふとサラリーマンは、唯一本物である木立の(やなぎ)の下で、うずくまっている人影に気づいた。オンライン・メガネをかけたり外したりしてみたが、影は消えないので本物の人のようだった。  どうやら若い女のようで、悄然(しょうぜん)とスカートに顔をうずめて泣いているのであった。  サラリーマンはてっきり、オンライン・メガネの拡張現実(AR)機能に酔った女だと思った。AR酔いは三半器官を狂わせるだけではなく、で涙が出ることもあった。サラリーマンは驚かさないようにして女のそばへ寄っていった。 「あのぉ、どうかしたのですか、お姉さん。AR酔いでも起こしましたか」  女は声もあげないでしくしくと泣き続けた。どうやらAR酔いではなさそうだと、サラリーマンは寄り添って腰をかがめた。 「あの、どうしたんですか。夜に女性が一人で出歩くのは危ないですよ。何か思いつめていることがあったら、ええと、僕がオンライン・メガネで警察に保護してもらうよう通報しますよ」  女はますますスカートへ顔をうずめて泣き入るばかりであった。サラリーマンはじれったくなって、女の肩へ手をかけた。 「いったいどうしたというんですか、お姉さん。こうやって親切にしているんですから、何か言ったらよいじゃありませんか」  女はひょいとスカートから顔を上げた。それは目も鼻も何もないのっぺら坊であった。 「わ」  サラリーマンは一声叫ぶなり、坂を四谷の方へ逃げあがった。あがったところに、昔懐かしいラーメン屋台の提灯(ちょうちん)があった。提灯の光だけがARで、あとは本物の屋台だったので、サラリーマンはふいごのような呼吸と同時にその屋台へ飛び込んだ。 「や、やばい、やばい!」 「どうしたんだい」  もやもやと立つ湯気の向こうにいる店主らしきおやじは、つまらなそうに言った。たちのぼる湯気でオンライン・メガネの硝子(がらす)がくもって、サラリーマンはおやじの姿をまともに見つけられなかった。 「ど、どうもこうもありませんよ! そこでやばいのを、み、見たんです!」 「オンライン・メガネのARアプリ、つけっぱなしにしてたんじゃあないのかい。当世珍しくもねえ話だ」 「馬鹿にしないでくださいよ! 現代の江戸っ子が、拡張現実か本物かを見分けられないとでも思いますか! 化け物に会ったんですよ、正真正銘の妖怪に! や、やばい顔をしてて……」 「へ、やばい顔、どんなやばい顔だったんだい」 「それが、おやじさん、やばいのなんのって、とても一言では言えませんよ」 「こんな顔じゃなかったかね」  おやじはぴしゃりと(ひたい)をひとつ打つなり、湯気の間から顔を出した。サラリーマンが硝子(がらす)のくもったオンライン・メガネを外すと、おやじの顔は目も鼻も何もないのっぺら坊だった。  サラリーマンは気を失った。  幕末から二十一世紀末になっても、国坂(くにさか)一帯にはあいかわらず(むじな)がたくさん住んでいた。一度は文明の発達によって夜も明るく人も多く、満足にいたずらができずにいたが、オンライン・メガネの拡張現実(AR)のおかげで、再び頻繁に妖怪のいたずらがしやすくなったと言われている。
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