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いつまでこうしていても仕方がない。
――美和子は諦めて、傘を取りにいったんマンションに引き返そうとしたそのときだった。思いがけず、豪邸の門扉が開いたのだ。
現れたのはあの女だった。
咄嗟にアパートの敷地内に戻り、階段から死角になるような位置に身をひそめた美和子は、トートバッグを肩にかけ、黒い傘をさした女が階段をゆっくりとくだってくる様子をじっと目で追っていた。
女の影がだんだん美和子のほうに迫ってくるにつれ、じわじわと美和子の脳内で何かが動き始める。
するうち、女の姿が見えなくなった。建売住宅のあいだに設けられている私道にさしかかったのだろう。もしも坂を下ってくるのであれば、もう数十秒後には、このアパートの花壇の前を通り過ぎるはずだった。
雨も降っていることだし、車を利用する可能性が高いと考えた美和子は、そうだとしたら、幼稚園の前の駐車場に向かうはずだから、坂をくだってくるのはほぼ確実だとあたりをつけた。
が、坂をのぼっていく可能性もゼロではなかった。
もしも、30秒待ってあの女が現れなければ、坂道に出ることにしようと、美和子はそこまで策略を練っていた。
美和子は楓の木の隙間から坂道に目を凝らし、頭の中で数を唱えながら考えていた――
南条という名の、家庭持ちの男を寝取ったうえに、子どもまで産み落とし、正式な妻の座までぶん取った女。それが南条麻里。
でも、その名前すら偽物かもしれず、デザイナーとしての表向きの名前、つまり、通称に過ぎないのだろうと。
本性を明かしてやるチャンス。それがまさに今訪れようとしている。美和子の興奮が絶頂に達したとき、女の黒い影が楓の木の向こう側を横切って行った。
美和子はそれを見届けると、坂道に素早く身を移し、足早に女の背中に近づいていった。
「高畑さん。高畑紀美子さん――」
美和子の甲高い声が雨音を消し去ったその瞬間、女の足がぴたりと止まった。
黒い傘がゆっくりと動き出し、やがて大きな青い紫陽花の柄が美和子の視界から消えて、代わりに表情のない女の顔が現れた。
スローモーションのようにゆっくりとまばたきをした女は、何も声を発することなく、化粧っ気のない頬をわずかに動かし、ただ小さく笑っただけだった。〈了〉
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