28人が本棚に入れています
本棚に追加
マンション前を横切る急な坂道に立ちどまり、印刷物片手に古びたそのアパートの付近をうろつくふたりの女を見かけたのは、5月中旬のことで、よく晴れた土曜日のことだった。
そのうちのひとりは、長い黒髪をひとつに束ねた40代前半ぐらいの女で、もうひとりは、美和子の娘と同じ中学生ぐらいの女の子だ。
女の娘らしく見えるその子の髪は背骨のあたりまでのびていて、クセの強い髪質なのか、うねっていてまとまりがないのが、8階からでもよくわかった。母親と思しき女とともに、アパートの様子をうかがっているらしいその子の髪が、風にあおられてごわっと動いた。
あのひとたち、あんなボロアパートに住むつもりなのかしらと、美和子はふたりの背中を気の毒そうに見おろしていた。
それはそうと、年度が変わったばかりだというのに、こんな時期に引っ越しを考えるだなんて、よほど切羽詰まった状況にあるのだろう。さしずめ、別居か離婚話でも持ちあがっているといったところか――
そんな想像を巡らせながら、ルーフバルコニーで鉢植えの手入れをしていた美和子は、建設現場をうらめしそうに見あげるふたりの背中を見おろし、ああいうところにだけには落ちたくないと強く思った。
美和子は貧乏くさいふたつの背中から視線を逸らすと、部屋とバルコニーとを隔てる窓越しに、
「パパ、お昼何にする?」
リビングでスマホをいじっている夫に、弾んだ声で訊いた。
「たまには外食でもしたいところだけど、理沙がいないからなあ」
夫はスマホの画面から目を離さずに、独り言のように答えた。
「私たちが外で食べたって知ったら、私が塾で一生懸命勉強しているのにずるいって、むくれるわよね、あの子」
「だな」
夫はやっと画面から目を離して短い相槌を打つと、
「まあ、外食はさあ、理沙の中間テストが終わってから寿司でも食べに行くとして、今日のところは、うどんかそばか、何か簡単なものでいいよ」
と言って、大きなあくびをした。
「ええ、そうね」
美和子はあえて快活な声を繕って返事をすると、早速、キッチンに行って鍋に火をかけた。
そして、うどんの薬味を刻みながら考えていた。
夫が行こうと言っているのは、家族3人で行けばゆうに3万円は超えてしまうような高級な寿司屋のことだ。そんなところにお金をかけるだけの余裕が美和子の家にあるかといえば、認めたくはないが「NO」である。
それに、理沙と同じS高校を志望している涼香ちゃんのママは、通塾の日数を週3日から4日に増やすつもりだと言っていた。
涼香ちゃんが増やすのならば、理沙だってそうしないと遅れをとってしまうのではないかと焦った美和子は、その話を聞くや否や、6月から通塾日数を週4日にするための手続きを既に済ませていた。それによって、当然塾の月謝は割り増しになる。さらに、夏休みになれば、別途、夏期講習代も発生するのだ……。
先月、涼香ちゃんママたちとランチに出かけた帰りに、つい見栄を張って買ってしまった4万円近いバッグ代も、家計に大きくのしかかっているというのに、ここへきて塾代の割り増しは正直痛手だ。そういう状況下にあるのに、3万円も寿司代にかけるなど論外だった。
けれども、家計がキツキツだからといって、美和子はパートを始めるつもりもなかった。専業主婦でい続けること。それこそが美和子にとってのステータスに他ならなかったからだ。
最初のコメントを投稿しよう!