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涼香ちゃんママとの通話を終え、スマホで南条麻里の情報を検索してからというもの、しばらくのあいだ放心状態に陥っていた美和子は、トラックのエンジンがかかる音を聞いて、はっと我に返った。
寝室からリビングに移動し窓から外を見ると、引っ越し作業員や南条一家がやってきたときには明るかったはずの空がどんよりと曇っていて、3台のトラックが走り去って行くところだった。
荷物の搬入作業が終わったようだった。高級車は2台とも姿が見えなかったから、おそらくは、幼稚園前の駐車場にでも止まっているのだろう。
「……買い物に行ってくる」
リビングでスマホをいじっている夫にそう言い残してマンションを出た美和子は、スーパーではなく、足場が組まれているアパートに向かった。
坂道を横切るとき、小雨が降っていることに気づいたが、傘を取りに戻ろうなどという意識は働かなかった。ゴミ置き場と花壇のあいだを抜けて、シートが張られている建物のほうに近づいて行く。錆びついた自転車は、初めてこの場所に立ち入ったあのときのままになっていた。
外階段のあたりにシートがかかっていない部分があった。美和子はそこをくぐって1階の玄関のほうへとまわった。103号室の洗濯機はそのままになっていたが、それ以外のものは何もなく、扉の両脇に干されていた2本の傘も見当たらなかった。
美和子は外階段の脇を抜けて自転車の横に立ち、シートの向こう側を凝視すると、そこにポストはなく、代わりに木製の看板のようなものが立てかかっているのがかすかに見えた。
一瞬、自分の目を疑ったが、解体工事に先立ち、ポストが撤去され、工事の情報が書かれた看板でも設置されたのだろうと思い、さらに目を凝らしてみるも、何が書いてあるのかまでは判読できなかった。
美和子はシートのつなぎ目をこじあけて、隙間を作り、中を覗き込んだ。すると、板面には『関係者以外駐輪禁止』という赤い文字があった。じかに手書きされたその文字は、風化が進んでかすれていた。
いったいどうしてしまったんだろう、記憶違いをしているのだろうかと、美和子は自分自身を疑わざるを得なくなった。
しかし、美和子の目には、あのとき見た景色がしっかりと焼き付いているのだ。確かにこの場所にはポストがあったはずで、あんな古びた看板はなかったはずだし、荷物を運び込む現場はもとより、制服姿の娘が出入りするのも、あの女が夜遅く、あるいは早朝に出入りする姿も何度も目撃しているのだ。だから、あの親子がここに住んでいたことは絶対に間違いないはずなのだと、美和子は改めて自分に言い聞かせた。
釈然としない気持ちのまま、花壇の脇を抜け坂道に出た美和子は、建売住宅の群れの先にそびえ立つ豪邸を見あげた。雨脚が先ほどよりも強くなっていて、ぽつぽつと冷たい粒が頬を濡らした。
美和子は長い階段の先にあるはずの、表札について想像を巡らせていた。でも、それを確かめてみたところで、自分の目撃したこれまでのものが幻覚であったのか、現実であったのかを見極める材料にはならないだろうことはわかっていた。
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