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あの親子が向かいのアパートに荷物を運び込んでいる姿を見たのは6月初旬のことで、その日は朝から晩まで雨が降り続いていた。
荷物の搬入が終わってもなお、老人が住んでいる、向かって左側の2階の部屋を除き、雨戸は全て閉めっぱなしになっていたので、彼女たちがどの部屋に引っ越してきたのか定かでなかったが、夕方になると、向かって右側の1階の部屋の隙間から、わずかに明かりが洩れ出ていたので、親子の部屋が特定できた。
「南条あかり」という名の女子が、理沙のクラスに転入してきたという話を聞いたのは、その翌日のことで、ちょうど中間テストの前日だった。
向かいのアパートは理沙が通う中学の学区内にある。状況からして、アパートに引っ越してきたのが南条親子であろうと美和子は推測したが、確証はなかった。
なぜこんなにもあの親子のことが気になるのか、自分でもよくわからなかったが、でも、美和子はどうしても気になって気になって仕方がなかったのだ。
美和子は漠然と考えていた。表札でも出ていれば手っ取り早いのだが、今どきの賃貸住宅の住民は表札を出さないことが多いので、住民の名前を特定するのは難しいかもしれないと。
けれども美和子は、わずかな可能性に賭けてみようと思い、とうとうその日の正午過ぎ、買い物でも行くようなふりをして、アパートの敷地内に立ち入ってみることにしたのだ。
1日中雨模様だった昨日と打って変わって、今日は朝から気持ちのいい青空が広がっているが、陽当たりのよくない場所は地面がまだぬかっていて、アパートの横にあるブロック塀に囲まれたゴミ置き場も、じっとりとしているのが遠目から見てもわかった。美和子はあたりの様子を見渡しながら、ゴミ置き場に近づき、知った顔がいないのを確かめた。
小さな花壇――と言っても、手入れの行き届いていない楓の木が、2本ほど植わっているだけなのだが――ゴミ置き場とその花壇のあいだを一気に抜けて敷地内に入ると、3メートルほど先に年季の入った外階段が見えた。そして、ちょうどゴミ置き場の裏手にあたる場所には、錆びついた自転車が1台、生い茂る雑草の中に無造作に置かれている。
自転車置き場の横を見ると、銀色の古びたポストが建物の壁にじかに設置されていて、201号室のところには「松澤」と手書きで記された黄ばんだ札がささっていたが、他は何の表示もなかった。「松澤」という表札は、おそらく老人の部屋のものだろう。
外階段の脇を通って崖のほうにまわると、そこは薄暗く、茶色い扉が3つ見えた。扉の両側にそれぞれ小さな窓が1つずつあった。いちばん奥に位置する103号室に近づいてみると、案の定、表札は出ておらず、扉の脇には型の古い洗濯機が置いてあった。
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