長い階段

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 負け惜しみなんかじゃない。そこに住む人たちだってどうせ、そう遠くない将来に家計のやりくりに四苦八苦するのだ。このマンションの最上階とほとんど値段は変わらないのだろうから――  8階建てのマンションのバルコニーから、35年ローンの影がちらつく完成途上の戸建ての群れを見て、三浦(みうら)美和子(みわこ)はそんなことを思っていた。  つい半年ほど前まで、坂の向こう側は古いアパートが1棟あるだけで、空き地に近い状態にあったが、その場所は今、建設ラッシュのただ中にあった。  美和子一家が、夫の実家からこのマンションの最上階に越してきたのは、娘の理沙(りさ)が中学2年に進級するときのことであり、およそ1年前のことだった。  引っ越しに伴い学区が変更してしまったのだが、学校にかけあった結果、学区外登校が認められた。許可されたのには、理沙が転校を頑なに拒否したのもあったが、マンションの目の前を横切る坂道がちょうど学区の境目になっていたという事情も大きかったと、学校側から聞かされていた。  美和子は少し視線を持ちあげて、建設現場の背後にそびえる整備された崖の上に目をやる。そこに広がる敷地も一足遅れで工事が始まっていたのだが、崖下の建売とは違ってかなり規模の大きな工事だった。建物は4階建ての一軒家らしく、最上部は美和子の部屋よりも少し高い位置になっている。  いったいどんな人種が住むのだろうかと、羨ましさ半分、諦め半分といった心境で、完成途上の建物を見つめる美和子。その視線が、崖の下にある古いアパートに移る。  いつ取り壊されてもおかしくないというような様相を呈したその2階建てアパートは、まるで新築戸建ての販売広告に、昭和時代の写真を切り取って貼ったみたいに浮いて見え、足場や擁壁に挟まれて窮屈そうだ。  夫の実家はマンションから歩いて5分程度の距離にあった。いわゆる「地元の人間」である夫は、このあたりの事情に詳しく、彼の話によると、そのアパートは築50年近くもたつという。  美和子たちが夫の実家を離れ、このマンションに移り住んだ1年前は、アパートは6部屋全て埋まっていたが、今住んでいるのは男性の老人ひとりだけで、ときどき杖をついて出かける姿を見かける。  夫の話によると、間取りは小さな台所とトイレ、風呂の他に6畳間がひとつあるだけだという。ベランダもなく、美和子の住むマンション側に、落下防止の錆びた柵が取り付けられた窓があるのだが、老人が住んでいる部屋以外は、古びたグレーの雨戸が閉めっぱなしになっていた。
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