からかい

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からかい

「オーイこれみろよ、ブス美って絵も下手」 壁に飾ってある絵を指差して同じクラスの平野君がケラケラと笑う。長山君も私の絵を見て、 「ブス美は不細工だから綺麗なものなんて描けないんだよ。鷺沢さんの絵を見てみろ、綺麗な女子は絵も綺麗だろ?」 六年二組の教室は大爆笑が起きた。そして鷺沢恵利華ちゃんは、私はどうしたら良いのだろうという戸惑いの表情のまま、静かに目を伏せていた。その横顔はアイドルみたく可愛らしい。 私が、ブス美と呼ばれても先生はいつも、からかいもほどほどにしなさいとしか言わない。そうか、これはからかいで、いじめじゃないのか。大人は都合が悪いことがあると綺麗な言葉に言い換えて誤魔化すのが得意だ。 隣の席の道成寺君は無言で席を立つと、平野君と長山君の絵に向かうと、勢いよくコンパスの針で画用紙を切り裂く。二人の絵に大きなバッテンが刻まれた。そして壁にも大きな傷。 「お前らの絵は飾る資格なし、真沙美の絵の出来をどうこう言う前に、根性入れ替えろ」 道成寺君は校則違反の茶髪のウルフカットの襟足の髪をなびかせて、何事もなかったように席に戻っていく。 そして、その日の朝の会は二時間目までずっと学級会だった。平野君と長山君の絵を切り裂き、教室の壁まで切りつけた犯人を先生は探し出したいらしい。 「先生が一人ずつみんなの持ち物検査をしてもいいんです。でもね、先生は正直にこういうことをした人が名乗り出てくれると信じています。」 渡辺先生は悪い先生ではない。でも良い先生になるには、圧倒的に何かが足りないと思う。道成寺君は隣の席の私にギリギリ聞こえる小さな声で、 「ババア、うぜぇ」 そう言うと、私に向かって含み笑いをしてきた。私は道成寺君みたく不良キャラになれないので、強張った微笑みを返すのが精一杯。 平野君も長山君も、クラスのみんなは道成寺君が不良っぽくて怖いから犯人は道成寺君ですと言えないでいる。道成寺君のご機嫌を損ねて、病院送りになるのは勘弁だった。 道成寺君はカツアゲしてきた学区外の中学生二人に大怪我をさせて、病院送りにしたそうだ。道成寺君のお父さんは綺麗な模様を手足に掘った、本物のヤクザ。学区内では有名な話だから、学区内なら中学生も高校生も道成寺君にカツアゲを仕掛けたりしない。 渡辺先生も絵を切り裂いた犯人が道成寺君だと薄々気がついているはずだ。でも、渡辺先生は自分から名乗り出てくれるのを待ってる。学園ドラマみたいな展開を希望しているのだ。 「俺以外誰がいるんだよ。茶番も大概にしろや」 道成寺君の茶番も大概にしろやという言葉は、小学生なのにヤクザ映画バリに決まっていて、渡辺先生は腰が引けて、教卓から三歩ほど後退りした。それでも渡辺先生は、 「なんでこんなことしたの?理由を話してごらんなさい」 あくまで、良い先生でいたいのだろう。 「平野と長山が調子コイてるから。今度俺の前で調子コイたら、ドスで指切り落とすか」 不適な笑みを浮かべて、手に刀を持っている仕草をする道成寺君。こういうのが冗談じゃなくて、本物に見えるってことはそれが道成寺君の日常なんだろう。同じ学区内で近くに住んでいるけど、物凄く遠くに彼はいる。 渡辺先生も怯えた顔をして、 「じ、授業を始めますよ」 道成寺君を注意出来ずに算数の教科書を取り出した。 それから、平野君と長山君による私に対する「からかい」はピタリと止んだ。いじめっ子は弱い物をとことんいじめるけれど、自分より強いものには歯向かうことすらしない。 私は学校の授業でも遊びの時間でも絵を描く時間が好きだ。平野君と長山君が言うように、絵はとてもとても下手なのだけれど。今日は公園に行って花壇の花を一生懸命チラシの裏紙に描いてる。 うちはビンボーだから習い事はさせて貰えない。六年生にもなると、習い事や学童スポーツでみんな忙しい。誰も遊んでくれないから、教室の落とし物入れからこっそり取ってきた鉛筆で絵を描く。 三角公園と呼ばれてるこの公園はブランコと滑り台があるだけで、人気がない。誰もほとんど来ない。私が花壇のコスモスを描いていると、何か煙い臭いがして、振り返ると道成寺君が慣れた手つきで煙草を吸っていた。 「道成寺君!?」 いくら大人っぽいとはいえ、小学生が公園で煙草を吸っていたら、お巡りさんが来ちゃう。 「悪い、悪い。親父に煙草買ってこいってパシりに使われてさ」 胸ポケットから自動販売機で使えるタスポを出してニヤっと笑う。そして、私が咳き込むと煙草の火を消して携帯灰皿に入れて私の絵を覗き込む。 「この街は組のシマだから、ポイ捨てはするなって親父がうるせえからな。真沙美はいっつも絵を描いてるよな、幼稚園の頃から」 そう、道成寺君とは幼稚園から一緒だった。 「下手だけど、他にやることないし、うちはビンボーだから」 私は下手なコスモスの絵をくしゃくしゃに握り潰す。手のひらの中で握りしめた絵を、道成寺君はじっと見つめたまま、 「真沙美。今から俺がこの花壇のコスモス踏み潰したら怒るだろ?真沙美は自分で描いた花を自分で踏み潰すのか?」 花壇のコスモスの花の香りを確かめるようにコスモスの茎を手前に引き寄せる。 「だって、コスモスは綺麗でも私の絵は下手なんだもん」 「俺は真沙美の絵が好きだけどな。素朴って言うのか?真沙美みたく勉強得意じゃないから上手い言葉で言えないけどな」 絵をくしゃくしゃにして握りしめた私の手から、そっと絵を取り上げると丁寧に皺を伸ばして広げてくれた。 「あ、ありがとう」 私は触れ合った手が恥ずかしくてどもってしまう。 「俺はさ、普通に生きられないって産まれた瞬間から決められていたんだ。将来は親父みたくモンモン背負って肩で風切って生きてくしかない。体に墨入れるなら、真沙美の絵がいいな」 スーパーの特売チラシの薄ピンク色。落とし物のちびた鉛筆で描いた下手なコスモス。 「こんな迫力のない絵じゃ、敵対組織に舐められちゃうよ」 私がそう言って笑うと道成寺君は、 「ギャップがいいんだよ。可愛い入れ墨だと油断したらブスッと刺されてたってな」 道成寺君も笑ってくれた。 それから時々三角公園で道成寺君とお喋りするようになった。あるとき、道成寺君は大きな箱を抱えて三角公園にやってきた。 「これ、うちの三下から貰ったんだけど、俺は絵とか興味ねえからさ」 木箱に入った輸入品の色鉛筆だった。100色のグラデーションが目映いばかりに夜空に輝く花火のようだ。 「こ、こんな高級品貰えないよ」 私は欲しい気持ちをぐっと我慢する。 「真沙美は賢いんだな、やっぱり。ヤクザに借りを作ったら最後、骨までしゃぶられる。でも、これは、なんていうんだ…。その…。三下っていう下っ端から貰ったんじゃなくて、俺からのクリスマスプレゼントだ。俺が貯めた小遣いから買ったんだから気にするな」 「道成寺君…私がビンボーだから同情してくれてるの?」 「同情なんてクソの役にも立たねえよ。これは…同情じゃない、愛情」 また、小学生の癖に慣れた手つきで道成寺君は煙草に火をつけてカッコつけてる。でも、小学生なのに愛情って言葉がこんなに似合う。彼は人より早く大人にならないといけない世界で生きていく運命なのだろう。 「ありがとう、大切に使うね。お礼はどうしよう」 私は煙草の煙でむせながら、彼の隣にしゃがみ込んで、パンジーが咲いている花壇を眺める。 「この花、紫で丸っこくて綺麗だな。まずはこれ描いてくれよ。お礼は真沙美が描いた絵を見せてくれること。大切にじゃなく、バンバン使って一杯絵を描いてくれ」 私の頭をよしよしと撫でる道成寺君は、どんなに大人びた言葉を使っても、やっぱりあどけない少年だった。 道成寺君にパンジーの絵を渡して、夕暮れチャイムが鳴ったから家に帰った。 家に帰ってからも、100色の色鉛筆の箱を開けては閉めて、閉めては開けて、何度も何度もその美しいグラデーションを眺めていて、その夜はなかなか眠れなかった。 数日後の朝、お母さんがパートに行く支度をしながら悲鳴を上げてテレビを指差してまくし立てる。 「ちょっと、あんたと同級生の道成寺尊が殺されたってさ!敵対する暴力団に親子して銃で撃たれたなんて、怖い。貧乏でも真面目に生きた方がいいわね」 私はテレビ画面を茫然として眺めてから、気がついたら涙がこぼれていて、 「道成寺君は…お母さんが思うよりずっと真面目だったよ…。お皿洗いと洗濯物干し、掃除しておくね」 昼夜問わずパート掛け持ちで働くお母さんに心配をかけてはいけない。いつの間にかいなくなった父親の分も頑張っているから。お母さんは道成寺君の話より、冬休みに入った私が家事をしっかりやってくれる話でほっとしたようだ。 「ありがとう、戸締まり気をつけてね」 疲れた顔のまま、弁当屋のパートに出かけていった。 私は道成寺君がくれた木箱に入った色鉛筆をぎゅっと抱きしめて畳の上でわんわん泣いた。 私の下手な絵が好きだって、 入れ墨にしてみたいって、 大切にじゃなくバンバン使って絵を描けって、 ついこの間言ってくれたのに。 道成寺君しか私の絵を褒めてくれないのに。 どうして、ただの男の子なのに殺されなきゃいけないの?どんなにカッコつけて凄んで見せても、笑ってる彼は、まだまだ子どもだった。 彼は愛情なんて背伸びした言葉を使ってたけど、好きだって私も言えなかったけど、たぶんこれが初恋なんだと思う。 好きだって言えないまま死んじゃうなんて酷いよ。 神様、100色の色鉛筆なんて要らない。 チラシの裏紙に落とし物のちびた鉛筆でいい。 お願いだから、道成寺君を生き返らせて。 今度は普通のお家の普通の男の子にしてあげて。 神様、ねえ聞いてる? まだ私は道成寺君に見せたい絵がいっぱいあったんだよ。彼が大人になったら、私の迫力のない絵を入れ墨にするんだって笑ってたんだ。 お願い、せめて彼を天国に連れて行って。 いじめっ子から守ってくれて、ビンボーな私に同情じゃなく愛情をくれて、良いこと一杯してきたから。 日が暮れるまで私はお母さんの代わりに家事をしながら、神に祈り続けた。 あれから三年が経ち、私は中学三年生になっていた。相変わらず絵は下手なまま、成績は学年でトップ争いをしている。二学期の学期末テストが終わった後に、家から100色のあの色鉛筆を持ち出して、道成寺君とよくお喋りをした、三角公園に行く。 柊の葉と実を描いてみる。道成寺君、今年もクリスマスが来たよ。ほら、柊。 え?柊の葉も実も平面的で立体感がないって?相変わらず私の絵は進歩しないね。でも、君がくれた100色の色鉛筆は少しずつ少しずつ減っていく。よく使う色は半分くらいの長さになっちゃったの。 ずっと見ててよ。 「相変わらず下手な絵だな、素朴でいいけど」 天国で苦笑いしてて欲しい。 帰ろうと立ち上がった私のマフラーに柊の実がひとつ落ちてきた。 すぐそこにさっきまで道成寺君がいて、ここにいたよって合図のために落としたように見えた赤い実。 柊の実の赤は、初恋の色をしている。 この淡い溶けそうな赤色は絵では描けない。 二人の心にだけある暖かい冬の思い出。 ずっと大好きだよ、道成寺君。 心の中で彼に呼び掛けて私は家路についた。
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