トイレットペーパーの足跡

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 夢の中で、私は長大な雲の上にいた。  白く、長く、巨大な帯のようにたなびく雲の上。  のどかな光景なのに、夢の中の私は必死に走っていた。  もっとゆっくり歩けばいいのに。  せっかく、こんなに、幻想的な世界にいるのに。  しかし、私は、涙を流し、よだれをこぼし、汗を振りまきながら走り続けている…… □  おかしな夢を見たせいで、汗をびっしょりかいており、起きてからも体が重かった。  アラームを止めて、朝食の前に、トイレに行くことにする。    便座に腰かけると、妙なことに気がついた。  トイレットペーパーに、何か、黒い斑点がついている。  この部屋には、私が一人暮らししているだけで、こんないたずら(?)をするような同居人の類はいない。ペットもいない。   トイレットペーパーを引き出してみると、その斑点は、どうやら一定の形をして、いくつも描かれていた。  おはじきくらいの大きさで、見たところ、人間の足跡をかたどっているようだ。  最近は色々変わったトイレットペーパーがあるというから、そのうちの一種なのだろう。おかしなものを買ったものだな、と思う。  ころころと更にロールを回すと、足跡はさらに先へ続いていた。  恐らく、一番最後まで印刷されているのだろう。  そこで、はて、と思った。  足跡の部分に指で触れてみると、温かいのだ。  まるで、たった今誰かがつけたばかりのように。   「……誰かいるの? この奥に」  そんな問いかけをする程度には寝ぼけた頭で、私はロールを回した。  足元に、引き出されたトイレットペーパーが積もっていく。  足跡はどんどん乱れていった。  ただ機械で印刷しただけのものには見えなかった。  誰だ。  どこまで、誰が走っているのだ。  もう少し。もう少しで、「走っている人」に追いつく。  そんな確信があって、私はロールにのめり込んだ。  いきなり、浮遊感に包まれた。  次の瞬間、尻もちを着いたのは、柔らかくて白い、雲の上だった。 「また夢を見ているのかな」  と頬をつねると、痛い。 「あれ?」  とりあえず歩いてみることにした。  特に足が汚れているわけではないのに、私が歩いたところには、黒い足跡がついた。  見覚えがある。  これは、あの、トイレットペーパーにあった足跡だ。  トイレットペーパーにつく足跡が、ここについている。  ということは、この白くて長くて柔らかい足場は、雲ではなくて、トイレットペーパーか。  トイレットペーパーということは……これから……    その時、足場の白い帯が、後ろへ引っ張られた。  私の顔から、血の気が引いた。  私は走り出した。  引っ張られるがまま、どんどん後方へ消えていくトイレットペーパーの上を疾走する。  涙を流し、よだれをこぼし、汗を振りまきながら走り続ける。  嫌だ。  嫌だ。  助けてくれ。  誰か。  誰か――  目が覚めると、おかしな夢を見たせいで、汗をびっしょりかいており、起きてからも体が重かった。  アラームを止めて、朝食の前に、トイレに行くことにする。  トイレのドアを開けようとして、ふと手が止まった。  待て。あの夢……  私は思わず後ずさった。  そんなわけはない。そんなわけはないが、一応、今日のところは、違うトイレを使わせてもらおう。近所の小売店がどこかの。  私は着替えようと思って、服を取りに行った。  すると、クローゼットのドアの前の床に、小さな足跡を見つけた。  私は悲鳴をあげた。  そんなわけはない、見間違いか、何かの汚れだ、と言い聞かせて、しかし部屋着で外に出るのもやむなしと一人うなずく。  水でも飲んでから行こうと、キッチンの前に立った。  水道のレバーに、足跡があった。  いや、シンクにも、二筋ほどの小さな足跡が這い回ったように刻まれている。  早く出なくては、この部屋から。  あれらの足跡がどこに繋がっているのかは分からない。  だが、もしもまた同じところに連れていかれたら、今度こそ、。  私は、玄関のドアノブをつかみながら靴をつっかけた。  だから足元に気が行って、ドアをよく見なかった。  ドアには、びっしりと、しかし下から上へ一方向に、黒い足跡がついていた。  叫ぶ間もなく、私の体は。その足跡に引き込まれるように上方へ滑り、ドアの上端と壁の隙間に吸い込まれた。  ひどく高いところから落下するような感覚に、思わず目を閉じる。   目を開けると、眼下には、白くたなびく巨大な帯が、ぐんぐんと迫ってきていた。 終  
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