涙の存在

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 とある古びたホテルの一室。窓の外はどんよりしているが、まだ15時を回ったところだ。降りしきる雨は止みそうにない。  授業を終えた私は、ホテルのベッドに座って窓の外を見ている。高校の授業は退屈に感じ、放課後は息抜きというか現実逃避をしている。  白髪混じりで小太りの中年男性が私の脇に立っていて、表情と息の荒さから男性は興奮気味なのがわかる。  私は目に薄ら涙を溜めた。  部屋の中は、静寂をかき消すように街の喧騒と男性の荒い息で覆われていた。 「もう我慢できない。早く飲ませてくれないか?」男性は私に5万円渡してそう言った。  私はその5万円を受け取った。そして、流した涙をコップに落とし男性に手渡した。  男性は嬉しそうにコップに入った私の涙を飲み干す。私の涙であることを確かめるように、私を見ながら味わっているふうに見える。 「次は君の目から落ちてくる涙を直接飲ませてくれないか?」 「駄目です。これだけが約束ですので」 「もう2万出すよ」  私は考えた。正確には考えるフリをした。 「5万」 「わかりました。いいです」 私は、涙を一滴一滴丁寧に落とした。その下で男性は口をパクつかせて喉を鳴らしながら飲んでいる。 「またよろしくね」男性は満足気に帰っていった。  私はこうやって涙を売って稼いでいる。体を売っているわけではないが、体を売るのに近いことをしているという罪悪感に駆られている。 「今日もまた私は涙を売った」鏡に映る自分を見ながら私は小さく呟いた。  涙が減るものだったら、限りがあるものだったらこんなことは絶対しない。限りがあれば、高校の卒業式まで取っておくのに。まだ見ぬ相手との結婚式まで取っておくのに。子供が生まれてくるときまで取っておくのに。  なのに、私の意に反して涙は簡単に、止めどなくいつも溢れてくる。悲しみの涙が。いつも明るい思い出のことを考えようと努めているのに、頭には常に不幸な思い出が溢れ出てくる。  真っ先に思い出すのは母のことだ。  男の子を欲しがっていた私の母は、女の子として生を受けた私を殺そうとしたらしい。高齢出産だったこともあり、これが最後の機会という思いが強すぎてそのような行動を取ってしまったようだ。殺したら男の子として生まれ変わるとでも思ったのだろうか。  諦めきれなかった母は私を男の子として扱うようになったが、父や周囲から諭され、。その後、自分の欲求を抑えることが息苦しくなったのか、私の目の前で自殺したらしい。私が2歳の頃らしい。母は遺書を残しており、「あなたが男の子だったらこんなことにはならなかった」と記されていたそうだ。自殺した理由が私にあったことよりも、遺書を私に宛てたことと、我が子を「あなた」と表現していたことが悲しかった。  子供の頃祖母が、この子に言ってもまだ難しすぎて理解できないだろうけど、知らせておく必要がある、と語ってくれたようだ。この話を思い出すと自然と涙が出てくる。  この嫌な記憶を消すくらい趣味とか恋愛にのめり込めば涙は出なくなってこの生活に終止符を打つことができると思う。母から愛されなかった悲しみを打ち消すにはもっと愛されればいいのかもしれない。  しかし私は明日も明後日も、ずっとこの生活を続けていた。  10年後、私は結婚した。こんな私でも深い愛情で包み込んでくれる人がいたことに感謝している。 「ただいま」夫が帰ってきた。私は玄関に出迎える。  「あなたお帰り。お風呂にする?夕飯にする?それとも私の涙飲む?」
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