優しい妄想

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 唐突にどこか遠くに行きたくなることがある。  もうすぐ午後3時になろうという頃。山代葉月は社内食堂で遅い昼食を取っていた。昼食時間をかなり過ぎているので、広い食堂には葉月を含めて2、3人しかいない。お気に入りの中庭に面した席に座る。広いガラス窓いっぱいに広がる中庭の緑。どこぞのおしゃれカフェのようだ。中庭の中央には木が1本。その周りでは季節ごとにいろんな花を咲かせている。なんでも社長夫人の手によるものらしいがなかなかのセンスだ。  休日出勤した時に社長と一緒にひっそりと手入れをしているのを見たことがある。社長夫人と言うと、美人でセレブなイメージだったのだが、どこにでもいそうな中年女性がジャージ姿で土まみれになっていた。意外だった。わざわざ休日に作業していることにいい人なんだろうなと思った。平日だと社長夫人と言っても部外者を放って置くことはできず、誰か社員をつける事になる。言葉を交わしたことなどもちろんないのだが、親近感を覚えた。と言っても優雅にガーデニングをしている時点で葉月のような庶民とは違う世界に住む人間である事には変わりないのだが。そうであっても社長夫人のおかげで昼休みの1時間を心穏やかに過ごすことができている。 「……熱海。熱海とかいいんじゃない?」  ふと、そう思った。葉月は自分で作ったお弁当のタコさんウインナーを頬張って、時刻表をめくった。普段は乗り換えアプリを使っているのだが、旅を妄想する時は本に限る。 「五反田駅からだと……」 「山代さん。どっか行くの?」  突然、頭の上で声がした。  顔を上げると同じ部署の小鳥遊宗近がのぞいていた。 「あ、ごめん。見えたもんだから」 「別に構いませんよ」  小鳥遊はそのまま葉月の向かいの席に腰を下ろした。 「俺もようやく昼飯」  聞いてもいないのにそんなことを言った。 「お弁当? すごいな山代さんは。おまけに美味しそう」 「別に適当に作ったのを詰めてるだけですよ」 「作れる人はみんな適当に作ったものっていうけど、できない人間からするとその適当が大変なんだよ」  小鳥遊はさりげなく褒めた。  小鳥遊宗近は2歳上の先輩だ。総務部に異動になってから口をきくようになった。今時のお洒落男子という感じだが、言動にそつがない。上司の覚えもめでたく、同僚や後輩からも好かれている。もちろん仕事もできる。葉月も何度もフォローしてもらった。噂によると幹部候補生で、早いうちからいろんな部署を経験させているとか。それ故に小鳥遊の彼女の座を巡って女子社員がザワザワしているのも知っている。  でも。そんなの私に関係ないし。  葉月は必要以上関わらないようにしていた。  小鳥遊も社長夫人もキラキラ側で、できる側で、持っている側で……葉月とは関係のない世界の人間だ。そんなキラキラ側の人間に、誰にでもできるようなお弁当を褒められても嬉しくもない。却って惨めになってくる。そしてそんな風に卑屈に受け取る自分がさらに嫌になる。だからキラキラ側の側にいるのは嫌なのだ。  しかし、小鳥遊は100%善意で言っている。これ以上ケンソンしても気を悪くするだろうと思い、葉月はそうかなと小さな声で締めくくった。 「で。どっか行くの?」 「行きません」 「行かないの? 時刻表じゃない」 「見てるだけです」 「見てる、だけ?」 「行きたいなって思ったところの乗り換えとかを見るのが好きなんです」 「へー」  小鳥遊は「へー」と言ったきり黙って社食の日替わりランチを食べ始めた。 失敗した、と葉月は思った。  早く食べてさっさと仕事に戻ろう。妄想旅のことなんて誰かに話すつもりなかったのに。  葉月も黙ってお弁当の残りを食べ始めた。  葉月が妄想旅を楽しむようになったのは、若年性認知症になった母の介護が始まったここ1年くらいのことだ。父が施設に入れるのを嫌い、家族で介護する事になったのだ。家族と言っても、子供は葉月しかいない。できる気がしなかった。だが、協力しないと突っぱねることもできなかった。趣味も恋愛も結婚も……母が生きている限りもう自分の時間は無くなるのだと思った。 「ごちそうさまでした。じゃあお先……」 「あのさ、どこに行きたいって思ったの」 「え」 「だから。どこに行きたいと思って調べてたの」 「熱海」 「熱海かあ。いいね。なんだっけ。カンキチお宮だっけ」  葉月は一瞬キョトンとして、次の瞬間吹き出した。 「カンキチはこち亀でしょ? 貫一お宮」 「よく知ってんね」 「有名な話じゃないですか」 「そっか。じゃあさ、そこ行ってやろうよ。カンイチお宮ごっこ」  小鳥遊の一言に葉月は固まった。  行けるわけがない。  休みの日に母を放り出して行けるわけがない。それに小鳥遊さんだって知っているはずなのに。私が介護をしていることを。勤務時間を調整してもらう必要があるから 「そうですね、いつか行けた時にやってみるのも楽しいかもしれないですね」  葉月は時刻表とお弁当箱を重ねて小脇に抱えると席を立った。  言わなければよかった。  適当に言い訳をして話を合わせておけば現実を見なくてすんだのに。  小鳥遊の善意は、葉月に現実と、自分の醜さを突きつけてくるようで苦しかった。 了
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