藤村になにが起こったか

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藤村になにが起こったか

 つい、一週間前のことだ。  金曜の晩、なんとか終電前に残業を終えて帰宅する途中、藤村からメッセージが入った。  私の自宅の近くのファミレスにいるので会えないか、とのことだった。  帰り道のついでにそのファミレスに寄ると、身ぎれいに整えた恰好とは対照的に怯えた表情の藤村がテーブル席の背もたれに身を隠すように座っていた。  私は藤村に声をかけた。  「おい、どうした突然こんな時間に。女にでもふられたか」  私を見た藤村の顔に安堵の表情が広がっていくのが分かった。逆にそれが心配になった私は聞いた。  「おい、なんだよ、どうしたんだよ、いったい」  「先日、人間そっくりに化ける化けものの話をしてくれたじゃないですか。あの化けもの、出たんです。今さっきまで一緒にいました」  「はぁ?なに言ってんだよ」  「逃げてきたんですよ。例の呪文のおかげで逃げることができました。あれ、あの呪文知らなかったら自分、今ごろどうなってたんですかね」  藤村の表情はみるみる青ざめて、テーブルに置いた手の指先がかたかたと鳴るのではないというくらい小刻みに震えだした。  「わかった。ちょっと、ドリンクバーの飲み物とってくるから、戻ったら順を追って話してよ」  私はドリンクバーでホットコーヒーを選び、なんとなくあの夜の千葉さんもこんな気持ちだったのだろうか?と思った。  私が席に戻っても藤村はしばらく落ち着かず、脈絡のないことを思いつくまま話したけれど、まとめるとこういうことだった。  藤村は、その日、マッチングアプリで知りあった初対面の女性と食事に行った。  やってきた女性は容姿から仕草、声の調子や性格まで、とにかくなにからなにまで藤村の好みで、藤村はその女性のことをどんどん好きになっていった。あまり喋らない女性だったけれど、向こうも藤村のことはまんざらでもないようだったので、二軒目に寄ったバーを出たときに思い切って、自宅で映画でも観ながら飲まないかと誘ってみた。すると、信じられないことにOKが出たのでその女性を連れて帰った。  部屋に入り、ワインで乾杯し、グラスの一杯目を空けた頃にはすっかり良い雰囲気になってキスをした。そして、彼女の髪をかき上げ耳にキスをしようとしたときにおかしなことに気が付いた。彼女の耳には、耳たぶが上にあった。  つまり、耳が上下逆についているのだ。  藤村はぎょっとして何度も見直したけれど、やはり逆についている。すると女が怪訝そうに、どうしたの? と聞いてきた。  藤村は、半信半疑のまま、小さな声で私から聞いた○○○という言葉を彼女の耳元で囁いた。  すると女は突然、大きな叫び声をあげ、藤村を突き飛ばした。顔を両手で抑え、指の隙間から金色の縦に割れた虹彩を持つ眼が藤村を睨んでいた。  よくも、と、おんな口から憎々しけに言葉が漏れた。  藤村は身の危険を感じ、今度は大きな声で○○○!、と叫んだ。  すると女は、先ほどよりも大きな、まるで獣が吠えるような悲鳴を上げ、よたよたと窓を開けてベランダに出ると、そのまま飛び降りた。  藤村の部屋はマンションの五階にあり、そこから飛び降りたのでは普通の人間であれば無事では済まない。  藤村は、ベランダに出た途端に待ち伏せを食らって襲われるかもしれない、という恐怖におびえつつもベランダに出て、建物の下を覗いてみた。しかし、そこに女の姿はなく、駐車場の乾いたアスファルトが見えるだけだった。  一瞬、悪い夢でも見たのではないか思ったけれど、部屋の中には自分が脱がした女の上着と鞄があり、そして玄関には女の靴が残されていた。  しかし、それを身に着けていた女の姿はどこにもないのだ。  藤村は混乱した。  もしやベランダから見えないところに落下しているのではないかと思い、大急ぎで外に出て、マンションの自分の部屋のベランダ側をくまなく見たものの、なんの痕跡も見つからなかった。  警察に電話をすべく、一旦部屋に戻ると、女の靴も鞄も上着もなくなっていた。そして閉めて出たはずのベランダの窓が開いており、カーテンが風に揺れていた。  とたんに部屋の中に何かが潜んでいるような気がして、○○○と、何度も大きな声で叫び、そのまま部屋を出ると、事情を説明して分かってくれそうな私に会いに来たのだった。  しかし、事情の理解を期待された側の私にしてみれば、正直、どうして良いか分からないというのが本音だった。なにしろ、すでに藤村に話した以上のことはなにも知らないのだから。  その晩はとりあえず藤村を私の家に泊め、翌日、日の高いうちに一緒に藤村のマンションまで行って部屋をくまなく見てみた。  リビングに空のワイングラスが二つある以外は、女の痕跡はなにも見当たらず、窓が東南に向いて日当たりが良く風も良く通る、暮らし心地の良さそうなその部屋は、藤村が話したような出来事が起きたとは想像することが難しかった。  藤村も陽光がたっぷりと降り注ぐ、暮らし慣れた自分の部屋で過ごすうちにいくらか落ち着きを取り戻したようだった。  私は藤村を落ち着かせるために思いついた適当なことを言った。  「おそらくなんだけど、昨日の女が化けものだったとして、もう正体もばれて一度追い払われているんだから、もう来ないんじゃないかな。やつらだってなんらかの目的があって人に近づくわけだからなにも知らない人のところに行ったほうが良いだろう」  「逆に正体がばれたから襲いにくるって考えられないですかね?」  「どうして?おれらが正体を知ったからってやつらに対してなにかできるわけじゃないだろう。向こうにしてみれば関わるだけ無駄だって」  「そうですかね」  しかし、藤村は部屋で一人になるのが怖いというので、その日は私が藤村の部屋に一緒に泊まることになった。  当然、なにも変わったことは起こらず、私が帰ってからも変わったことはなにも起こっていないようだった。  ところが今晩のこの電話である。
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