深夜の電話

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深夜の電話

 タクシーの迎車が到着するまでの間、私はどうしたものかと考えていた。  時刻はもうすぐ午前一時になろうとするところで、つい十数分前、布団にもぐりこんだときには、よもやこの時間から外出する羽目になるとは露ほども想像しなかった。  夜更かしなどせずにもっと早い時間に就寝していれば、藤村からの電話にも気づくことなく朝までぐっすり眠れていたはずなのだ。  そもそもどうして電話になど出てしまったのだろう?  チャットやメールでのコミュニケーションが当たり前になった昨今、音声での通話がすっかり苦痛になってしまった私は、電話がかかってきても出ずに、留守番電話で用件を聞いてメッセージアプリで連絡するというのが常だった。  しかし、その晩の電話は、職場の後輩である藤村からであり、最近、気にかかる出来事もあったので電話に出てみたのだ。  電話の内容は、案の定、といったところだった。  藤村は電話の向こうで、泣きじゃくりながら切羽詰まった声で助けを求めていた。  なんでも、マンションの部屋の周りを化けものがうろついていて、隙あらば入って来ようとしているので助けてほしい、ということだ。  たしかに、藤村にあの化け物の話をしたのは私だし、その話に出てきた化けものを撃退するためのおまじないだか呪文を教えたのも私だ。しかもその呪文とやらは実際に効果があったらしい。  しかし、そんな話をしておいてなんだけれど、私自身は、その化けものを見たことがないし、いや、正確には見たことがあるらしいがそれとはまったく気が付かなかったし、ましてや追い払ったことなどあるはずもなかった。  つまり藤村がいう化けものが本当にいるのだとしたら、私が駆けつけてもなんの役に立ちはしないのだ。  とはいえ、切羽詰まった藤村の頼みを無下に断ることもできなかった。  なぜならば、藤村が職場の親しい後輩であるということもあるけれど、今、仕事で抱えているプロジェクトは、藤村が院生時代から取り組んできた研究抜きでは実現できそうもなかった。  ようするに、ここで藤村が精神的に病んでしまい、直接的ではないにしてもそれに私が関係しているというのは、仕事的にも立場的にも非常にまずかった。つまり、眠いとか、だるいとか、かったるいとか言って放ってはおくことはできないのだ。  とはいえ、化けものなど実際にいるわけはないのだし、とりあえず藤村のマンションに行って顔を見て話しでもすれば落ち着いてくれるだろう。相変わらず化けものを信じていたとしても、追い払うふりでもすれば納得してくれるに違いない。朝になったら心療内科にでも連れて行って、ひどくならないうちに対処方法を考えよう。  (おっと、そうだ)  私はプラセボの効果を期待して、誰が見ても効き目のありそうな元三大師の降魔札の画像を印刷して持っていくことを思いついた。  元三大師は別名、魔滅大師や、角大師とも呼ばれ、魔除けや疫病除けとして用いられるそのお札には、角を生やした鬼のような姿が描かれており、一目見れば誰しもが効果を期待せずにはおれない強力なビジュアルをしている。  (こういうのは分かり易さが大事だからな)  私は、タクシーの迎車を待つ間、スマートフォンにダウンロードした降魔札の画像を、自分のマンションの一階にあるコンビニでプリントアウトして裁断し、十数枚のコピーを作った。  コピーの裁断を終えたとき、ちょうどタクシーがやってきた。  タクシーに乗りこむと、藤村のマンションの近くにある目印となる大きめの施設の名前を運転手に伝えた。  運転手は言った。  「もしかしてこれからお仕事ですか?」  「あ、そういうんじゃなくて。なんか、会社の後輩の家に幽霊が出るらしくて」  「ええ、ほんとですか、それ?」  「いやぁ、本人はそう言ってますけど、たぶん勘違いかなんかですよ。ここのところ忙しかったし、神経の細い奴なんで疲労がたまって精神的にまいってるんでしょう。そういえば、運転手さんこそ、こういう仕事って、このての心霊的な、怖い出来事ってけっこう遭遇したりしているんじゃないですか?」  「ああ、それね、たまにお客さんにそういう質問されるんですけど、私自身はないですね。うちの営業所でも聞いたことないですよ。怖いっていうなら生きている人間のほうがよっぼと怖いですよね。生きている人間のでよければ怖い話はいっぱいありますよ。ヤクザとか右翼とか、あと頭がイっちゃってる人とか。今はね、ドライブレコーダーとか防犯の設備がついたんでよっぽどいいんですけど、昔なんてほんと怖いことがありましたよ」  それから運転手は、旅行鞄に遺体の一部を詰めた、犯行直後の殺人犯を知らずに乗せた話や、支払の際に「チップ」といって財布の中の全部の現金をくれた客が「運転手さん、ちょっと見てて」と言ったかと思うと、目の前で鉄橋から飛び降りて自殺した話をしてくれた。  「まったく、まいっちゃいますよ。警察にはあれこれ聞かれるし、しばらく怖くて仕事はできなくなるし。でもま、暴力は振るわれたことがないんで、それはちょっとラッキーかなって思ってます」  「それは、…怖いですね。自分ならもしかしたら復職できないかもです」  「でしょう。でもね、私ゃほかにとりえもないもんでタクシーを転がすしかないんですよ。女房と子供二人を養わなきゃならんもんでね。ああ、そういえばどうなんですか、その会社の後輩の方の家に出る幽霊って、もしかしてこう、なんていうか、祓えたりするんですか?」 「いや、まさか。なんにもできませんよ。それにだいだい幽霊なんていませんて。たまたまね、その後輩と飲んだ時にした話がどうにも悪く影響しちゃってるっぽいんですよ」  「どんな話なんです?差し支えなかったら聞かせてくださいよ」  私は話しはじめた。
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