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病院に着くと、お父さんが待っていた。運転手さんにお金を払ってくれて、私たちはタクシーを降りる。
「山下君、一華を連れてきてくれてありがとう」
「いえ。それより、タクシー代……」
「そんなの貰えないよ」
お父さんは山下君に頭を下げ、私の手を取った。
「急ごう、一華」
「や、山下君っ」
「大丈夫。行ってこい」
山下君は私を安心させるような笑みを浮かべ、手を振る。私は後ろ髪を引かれながらもコクンと頷き、お父さんと一緒に病院の中へ入っていった。
山下君がいなければ、ここへは来れなかった。お母さんに会う勇気が持てないまま、何も話せないまま、幼い頃の恐怖を抱えたまま、二度と会えなくなるところだった。
私はグイと指で涙を拭う。
もう逃げないから。山下君の気持ちを無にしたりしない。気持ちを通じ合わせてこいって言ってくれた山下君。それはきっと、自分の体験と重ねている。
山下君もお母さんとの確執があって、可愛い妹の結ちゃんと無理やり引き離されて、どうしようもない悲しみを胸に抱えていた。
でも彼は克服したのだ。お母さんときちんと向き合うことで。だから──。
「ここだ、一華」
「うん……」
「大丈夫か?」
「……大丈夫」
絶対に、もう逃げない。
*
病室に入ると、そこは静かな空間だった。たくさんの人がベッドを囲んでいるのだと思っていた。
お父さんを見上げると、穏やかな表情で説明してくれる。
「もう最期だ。延命措置をお母さんは望まなかった。だから、家族だけで最期を迎えようって」
医師の先生や看護師さんたちは、外で待機してくれているのだという。私たち家族の、最期の時間を邪魔をしないように。
本当にもうダメなんだ。お母さんはもうすぐ死んでしまうんだ。そのことを、痛いほどに実感した。
「亜希子」
ベッドに横たわるお母さんに、お父さんがそっと呼びかける。お母さんは、何とか力を振り絞るといった感じで目を開けた。朦朧とした視線をお父さんに向けている。
「亜希子、一華が来てくれたよ」
「……っ」
お父さんが私の名前を出した途端、お母さんの様子が変わる。それに驚いてしまい、私はビクッと身体を震わせ、一歩後退ってしまった。
「いち……か……」
その弱々しい声に、私はショックを受ける。
お母さんのこんな声、聞いたことがない。私の知ってる声は二つだけ。一つは、キンキンと高く響く怒鳴り声、そしてもう一つは、私を優しく慈しんでくれていた頃の、ふんわりとした穏やかな声。でも今のお母さんの声は、昔の面影の欠片さえなかった。
今にも消えてしまいそうで、耳をすませていないと聞こえないような、掠れた声。
私はベッドに近づき、お母さんと目を合わせた。
「おかあ……ううん、ママ」
小さい頃は、ママ、パパと呼んでいた。小学校に上がる頃に呼び方を変えたのだ。お母さんとはすでに離れていたから、私はお母さんを「お母さん」と呼んだことがない。だから、あえて昔のように「ママ」と呼んだ。
「一華……一華……」
譫言のように何度も私を名前を呼び、瞳を潤ませる。お母さんはやがて、細い腕をヨロヨロと動かし、私に触れようとした。
「ママ」
私はお母さんの手を握る。こんなにやせ細ってしまった手。それでも温かい。まだ、温かかった。そのことに、途轍もなくホッとする。
お母さんは生きている。まだ間に合う。私は、お母さんに謝ることができるんだ。
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