06.今日は雨、明日はきっと。

8/15
前へ
/60ページ
次へ
 病院に着くと、お父さんが待っていた。運転手さんにお金を払ってくれて、私たちはタクシーを降りる。 「山下君、一華を連れてきてくれてありがとう」 「いえ。それより、タクシー代……」 「そんなの貰えないよ」  お父さんは山下君に頭を下げ、私の手を取った。 「急ごう、一華」 「や、山下君っ」 「大丈夫。行ってこい」  山下君は私を安心させるような笑みを浮かべ、手を振る。私は後ろ髪を引かれながらもコクンと頷き、お父さんと一緒に病院の中へ入っていった。  山下君がいなければ、ここへは来れなかった。お母さんに会う勇気が持てないまま、何も話せないまま、幼い頃の恐怖を抱えたまま、二度と会えなくなるところだった。  私はグイと指で涙を拭う。  もう逃げないから。山下君の気持ちを無にしたりしない。気持ちを通じ合わせてこいって言ってくれた山下君。それはきっと、自分の体験と重ねている。  山下君もお母さんとの確執があって、可愛い妹の結ちゃんと無理やり引き離されて、どうしようもない悲しみを胸に抱えていた。  でも彼は克服したのだ。お母さんときちんと向き合うことで。だから──。 「ここだ、一華」 「うん……」 「大丈夫か?」 「……大丈夫」  絶対に、もう逃げない。  *  病室に入ると、そこは静かな空間だった。たくさんの人がベッドを囲んでいるのだと思っていた。  お父さんを見上げると、穏やかな表情で説明してくれる。 「もう最期だ。延命措置をお母さんは望まなかった。だから、家族だけで最期を迎えようって」  医師の先生や看護師さんたちは、外で待機してくれているのだという。私たち家族の、最期の時間を邪魔をしないように。  本当にもうダメなんだ。お母さんはもうすぐ死んでしまうんだ。そのことを、痛いほどに実感した。 「亜希子」  ベッドに横たわるお母さんに、お父さんがそっと呼びかける。お母さんは、何とか力を振り絞るといった感じで目を開けた。朦朧とした視線をお父さんに向けている。 「亜希子、一華が来てくれたよ」 「……っ」  お父さんが私の名前を出した途端、お母さんの様子が変わる。それに驚いてしまい、私はビクッと身体を震わせ、一歩後退ってしまった。 「いち……か……」  その弱々しい声に、私はショックを受ける。  お母さんのこんな声、聞いたことがない。私の知ってる声は二つだけ。一つは、キンキンと高く響く怒鳴り声、そしてもう一つは、私を優しく慈しんでくれていた頃の、ふんわりとした穏やかな声。でも今のお母さんの声は、昔の面影の欠片さえなかった。  今にも消えてしまいそうで、耳をすませていないと聞こえないような、掠れた声。  私はベッドに近づき、お母さんと目を合わせた。 「おかあ……ううん、ママ」  小さい頃は、ママ、パパと呼んでいた。小学校に上がる頃に呼び方を変えたのだ。お母さんとはすでに離れていたから、私はお母さんを「お母さん」と呼んだことがない。だから、あえて昔のように「ママ」と呼んだ。 「一華……一華……」  譫言のように何度も私を名前を呼び、瞳を潤ませる。お母さんはやがて、細い腕をヨロヨロと動かし、私に触れようとした。 「ママ」  私はお母さんの手を握る。こんなにやせ細ってしまった手。それでも温かい。まだ、温かかった。そのことに、途轍もなくホッとする。  お母さんは生きている。まだ間に合う。私は、お母さんに謝ることができるんだ。
/60ページ

最初のコメントを投稿しよう!

321人が本棚に入れています
本棚に追加