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「ちょっとここ、座りなさい」
同棲相手の福田莉世(ふくだりせ)が、結婚式の二次会から帰ってきて四半刻、嫌な予感はしていた。
友人との会合の後はいつも、こちらが聞いてもいないのに怒涛の勢いで
話しかけてくる彼女が、この夜に限っては帰宅後、「ただいま」以外に何も言わず、パーティー用のワンピースを着替えもせずに、台所でただ黙々と冷蔵庫にあったビールを飲み続けていた。
ついに今夜、例の話を切り出されるのか?上野真樹(うえのまさき)は不自然に映らぬよう、テレビのスポーツニュースが終わったタイミングでソファから腰を上げ、自室に戻ろうと計画していたが、間に合わなかった。
真樹はそろそろとダイニングテーブルに向かうと、莉世と向かい合わせの席に、出来るだけ音を立てないようにして座った。
「まあ、飲んで」
「はい…」
目の前に居るのは恋人の筈なのに、サラリーマン時代に苦手な上司から酌をされた時と既視感を感じた。
「どう思う?」
「え、何が?」
「十五年以上前に付けられたあだ名が、実は嫌だったって言われたら」
「あぁ…」
振られたのが予想していた話題とは違い、思わず安堵の表情が出かかった真樹だったが、真剣、そして不機嫌な莉世の様子に、神妙な顔へと戻した。
「二次会で会った友達に、そう言われたの?」
「そう。中学時代の友達で、岩田心菜(いわたここな)って子がいたの。その子に言われて。当時は一言も厭だなんて言ってなかったのに…」
「なんてあだ名、付けてたの?」
「ガンコちゃん」
「……」
それは、気に入られはしないだろうさ。とは、真樹は口にしなかった。
「それで、彼女がそれ言ったら、他の昔の友達も私も厭だったとか言い出して」
「そんなに、みんなにあだ名付けてたの?」
「うん。だって、あだ名で呼び合えば一気に距離感縮まって、仲良くなれそうな気がしない?トンポンとか、グチコとか、ヌーミンとか、バッキーとか」
「それ、全部、莉世ちゃんが友達に付けたの?」
「そう。中学時代の友達に」
そりゃ、思春期の女子には不評だろうな。とは、真樹は口にしなかった。
「それで?莉世ちゃん自身は、友達には何てあだ名で呼ばれてたの?」
「特には。莉世とか、莉世ちゃんとか?福ちゃんって呼ばれたこともあったけど」
「そりゃ、理不尽だ」
流石に、真樹は口にせずにはいられなかった。
「だって、誰も嫌だとか言わなかったし…」
「言いづらいよ。付けた人が悪気なく付けてる風だったら、尚更」
莉世は年甲斐も無く口を尖がらせた後、急に真面目な顔をし、仕舞いにはその顔を自分の両手で覆った。
「……私って、無自覚パワハラ女だったのかな」
真樹は、否定はできなかった。莉世があくまで無自覚である点は擁護してやりたいが、彼女がその気の強さから、周りの人間を委縮させてしまう場面が多々あることも事実だったから。
「……気を遣ってっていうのもあるかもだけど、あだ名が厭だって言い出せなかったの、それだけじゃないと思うよ。中学生の時だろ?付けられたあだ名にケチなんかつけたら、自意識過剰なヤツとか思われそうで、それで言えなかったりとかもあったかも」
莉世は顔を覆っていた手を、パカリと開いた。泣いた形跡は特に見られなかった。
「マキちゃんも、そういう経験あった?」
「あったあった」
「ふーん」
それまでよりも落ち着いた様子になった莉世は、空になっていた自分のグラスに手酌でビールを注いだ。
「マキちゃんは、厭じゃない?」
「『マキちゃん』が?厭じゃないよ。呼ばれ始めはちょっと女の子みたいだなって思ったけど、今は別に。『マサキ』より『マキ』の方が呼び易いだろうし」
「そっちじゃなくて、あっちの…」
「ああ、『股間太刀の輔』」
それは、真樹が成人向けの漫画を描くにあたり、莉世に付けてもらったペンネームだった。
「そう…。前から、あれでよかったのかなぁとは、思ってて…」
「いや、あれはいいんだよ。俺も名前のセンスとか、いまいちだし」
どうせだったら、出来るだけ馬鹿馬鹿しいペンネームを付けたい。そう考えた真樹が、寧ろ絶望的なネーミングセンスの持ち主であると知っていた上で莉世に名付けを頼んだことを、真樹は今後も本人に告白するつもりは無い。
「それなら、いいけど。あ、お菓子食べる?二次会で貰ったやつ」
莉世はもう、いつもの彼女に戻っていた。無自覚パワハラ云々の後悔や反省も、すでに遠く彼方へと飛んでいってしまったことだろう。それでいい。彼女が元気であること、そして、あの話題が出ないことが真樹にとって何よりも大事だった。
「でもさ、私、やっぱり名前付けるの下手だし、二人の間に子供が出来たら、マキちゃんが名前付ける係ね」
真樹の慈愛の笑みが凍りついた。多少ショックな出来事があっても、結婚式の二次会が莉世の結婚願望を煽ったことには、変わりなかったようだ。
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