1人が本棚に入れています
本棚に追加
「本当にいいの?」
そう問いかけると、夫は力強くうなずいてくれたんです。
「当たり前だろう。お前と結婚して20年だ。20年分の思い出があるんだ」
「そうよね、20年……長かったわよね」
──最初は驚きました。
まさか、あの人が「移植」を望むだなんて。
それも「記憶」の。
信じられないでしょう。
あの人ったら、私の「記憶」を移植してほしいっていうんです。
私が逝ったあとも、私のことを忘れたくないからって。
でも、移植ってなんだか怖いでしょう?
だから、誓約書にサインする前に、実際に経験した方にお話をうかがってみたんです。
20代の若いお嬢さんで、彼女は婚約者に先立たれてしまったそうなんですけど。
お相手の方の記憶を移植してもらえたおかげで、今もすごく幸せだって。
しかも、移植された記憶を通して、自分がいかに愛されていたのかを実感できたらしくて。
「このままだと、もう二度と恋できないかも」って苦笑いしていましたけど。
だから、私も、決心したんです。
私のこの記憶を、あの人に移植してもらおう。
あの人には、私の20年分の思い出とともにこれから生きていってもらおうって。
それで……
……ああ、ごめんなさい。
ちょっと疲れてしまったみたい。最近あまり体力がなくて。
取材はここまでにしてもらえるかしら。
ええ、本当にごめんなさいね。
──移植後のこと?
ええ、もちろん、あの人に伝えておきますわ。
記者さんが、取材で自宅を訪れるはずだからって。
ふふ、あの人はどんなことを語ってくれるのかしら。
直接聞けないのが、残念だわ。
その2週間後──
移植手術が済んだと連絡を受けた僕は、さっそくご自宅を訪れた。
市街地から少し離れた住宅地にある一軒家──庭の雑草が目立つのは、葬儀だなんだでバタバタしていたからだろうか。
インターフォンを鳴らすと、若い女性が顔を出した。
おそらく取材対象者の娘さんだろう。記憶違いでなければ19歳──大学一年生だ。
「まずはお線香をあげさせてください」
「ありがとうございます。こちらです、どうぞ」
案内された仏壇の前で、線香をあげ、そっと手を合わせる。
「このたびはご愁傷様でした」
「いえ……」
「いろいろ大変だったでしょう」
「そうですね……亡くなったあと、悲しむひまもなく父の移植手術が行われましたから」
「うかがっております。……それで、お父様は」
とたんに、娘さんは顔を曇らせた。
「実は、隣の部屋で寝込んでいまして」
「えっ、身体の具合でも悪いとか?」
「身体というか……心というか……」
心?
つまり、それほど悲しみにくれているということだろうか。
「だったら良かったのですが……どうもそうではないみたいで」
「と言いますと?」
「せっかく移植してもらった母の記憶を拒んでいるといいますか」
「拒む……拒絶反応が起きたということですか?」
「まあ、広義の意味ではそうなるのかもしれませんね。なにせ……」
──「娘が生まれてまだ3日なのに、どうしてあの人は飲みにいくのかしら」
──「休日だというのに、どうして自分だけ遊びに出かけるのかしら」
──「娘の進路のこと、どうして私に任せきりなのかしら」
──「嫌だ嫌だ、もう嫌だ」
──「どうしてあんな人と結婚してしまったんだろう」
「……つまり、移植された記憶の多くは……」
「父への不満と愚痴ばかりだったみたいです」
ため息をつく娘さんに対して、どんな返答が正解なのかまるでわからない。
まさか、そんな結果になるとは。
いや、でも、そういえば生前彼女は──
──「私、ここのところずっと想像しているんです。
私からの最後の贈り物を、あの人がどんな顔で受け取ってくれるのか」
ああ、そうだ。
彼女はうっすらと笑っていたのだった。
──「ねえ、本当に……見られないのが残念だわ」
最初のコメントを投稿しよう!