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その日はずっと曇り空で陽の光が恋しい一日だった。
遥希はとある病室の扉をノックして開けた。六人部屋の一角、カーテンの仕切りの向こう側に幼馴染が眠っている。
「ちなみ、具合はどう?」
返事はない。緊急搬送されて、五日間は昏睡状態のままだった。
「ねえ、どうして自殺なんかしようとしたの?」
ちなみの手を握った。ぬくもりはあるが、人形の手のようだ。
遥希にとってちなみは大切な幼馴染だった。
さっぱりとした性格の遥希と比べて、大人しくてガラスのように繊細な女の子だった。四年前に突然結婚すると聞いたときは驚いたが、花を綻ばせたようなちなみの笑顔はきっと忘れられない。駆け落ち同然で、厳しい両親からは祝福されたものではなかったけれど、彼女が幸せになるのならそんなことは些細なものだった。
遥希自身も仕事が忙しくて、最近は連絡を取り合うことも滅多になかった。突然ちなみの夫から入院したと連絡を貰ったとき、質の悪い冗談だと思った。そうであってほしかった。
「せめて相談してほしかったよ。わたし、ちなみのためなら何でもしたよ」
せめて目を開けて。そう祈った。それとも、自殺しようとするくらい辛いことがあったのなら、意識を取り戻さない方がちなみのためなのだろうか。
ちなみの手を強く握ったとき、カーテンが静かに開いた。
「関本さん、お見舞いありがとうございます」
そう声をかけてきたのは、ちなみの夫の三条一弥だった。
「こんにちは。……わたしにできることはこれくらいしかないので」
ベッドに挟んで向かい側に座ると、ちなみの顔を眺めた。
「あの、ちなみに何があったんですか?」
一弥は言うまいかどうか迷って、重々しく口を開いた。
「流産したんです。もともと精神的に不安定なところがあったんですが、妊娠してからは特にそうで……。流産してよほどショックだったんでしょうね。仕事が忙しくて十分にケアできなかった僕がいけないんです」
俯く一弥に「そんなことないですよ」と遥希は励ました。
「ちなみ、結婚するとき本当に幸せそうだったんです。いつも一弥さんのこと嬉しそうに話してました。……わたしなんて、ちなみが妊娠していたことすら知らなかった。何も話してもらえなかった……。あの、わたし帰りますね。また、お見舞い来ます」
遥希は鞄を手に取って、逃げるように病室を出た。
(もしかしてわたしって、ちなみに信頼されてなかった? だから妊娠したことも言ってくれなかったの?)
電車に揺られながら、もやもやと窓の外を眺める。地下鉄の中で窓に映った自分の顔が見える。
高校生のとき、ちなみとよく一緒に電車で通学していた。
「はるちゃん、結婚するならどんな人がいい?」
「けっこんー? 彼氏もいないのに?」
「もしもの話だよ」
夕暮れで赤く染まった電車の中。ちなみと毎日いろんな話をした。
ちなみは両親が厳しかったせいか、家族にただならぬ憧れを持っていたようだった。
「んー、考えたこともないや。でも、強いて言うなら面白い人かな」
「お笑い芸人とか?」
「いや、別にそこまでのレベルは求めてないわ。ちなみは?」
「優しくて、明るくて、かっこよくて、あたしのこと好きな人!」
「夢があるねぇ」
「夢がないと結婚なんかできないよ」
ちなみはクラスでは目立たない子だったけど、夢見がちで、遥希と二人きりのときだけ、小鳥のようにたくさん話した。
ずっと友達だと、二人なら何でも話せると、そう思っていた。
そう思っていたのは遥希だけで、ちなみはそんなこと思っていなかったのかもしれない。
考えれば考えるほどちなみのことがわからなくなり、ショックだった。
病院から帰宅して、ソファに倒れ込んだ。しばらくうたた寝をしていると、着信音が鳴った。鞄を弄って携帯を手に取る。
「お母さん? ……はい、もしもし。どうしたの?」
『元気? 風邪とかひいてない?』
「元気だけど……、なに?」
『なによ~、用がなきゃ電話しちゃいけないの? 今日ね、お母さん職場の人の結婚式に行ったんだけど、あんたはどうなのかなと思って』
「どうって?」
『結婚よ~! 予定ないの? 彼氏とかは?』
「予定もないし、彼氏もいないよ」
『つまんないわね。あんたもいい歳なんだから、結婚しなさいよ。お母さんの職場の人紹介してあげようか?』
「余計なお世話だよ。急用とかじゃないなら切るよ」
『冷たいわね。そうだ、ちなみちゃんは元気? あの子も結婚して、そろそろ子どもいるんじゃない?』
「ちなみは……、元気だよ。子どもはまだみたい。じゃあ、切るね。ばいばい」
『ちょっと――』
遥希は電話を切って、クッションに顔を埋めた。
「なんだよみんな結婚結婚って。別に義務じゃないでしょ」
気が付けば、そのまま深い眠りに落ちていた。
翌日、その日は曇り空の隙間から太陽が見え隠れしていた。
出社してプレゼン資料を作っていると、背中をポンと叩かれた。後ろを振り返ると、同期の今永だった。
「関本、今日暇? 久々に飲みに行かない?」
今永とはよく飲みに行く間柄だ。異性として意識することもないちょうどいい距離感で入社して一年目のときからよく仕事の愚痴に付き合ってもらっている。
「そうだねー、久しぶりに行こうかな」
「オッケー。良い店見つけたから期待しとけよ」
「はいはい」
仕事を定時で切り上げ、大衆居酒屋に入った。
「良い店って言ったからもうちょっとリッチなところかと思った」
「安いところで悪かったな! でもここのつまみは本当美味しいからさ」
ビールとつまみで、仕事の愚痴をあらかた言い合ったところで、遥希は「てかさー」と話題を変えた。
「この間親から結婚しろって催促されてさ、本当うざいんだけど」
「いーじゃん結婚。結婚しなよ」
「今はまだいいよー。てか彼氏もいないし」
「おいおい、彼氏の一人もいないのかよ」
「いたらアンタと飲みに来てないわ」
「たしかに!」
二人はぷっと吹き出した。
「今永こそ結婚しないの?」
「いつかはするっしょ。でも彼女がいねーよ」
「おいおい、彼女の一人もいないのかよ!」
「うるせー!」
今永はビールを二杯追加した。もろみきゅうりをつつきながら、頬杖を突いた。
「もし、お互い三十過ぎて独身だったら結婚しない?」
「わたしが今永と? いいねー。でも今永とはないわ」
「まあ、俺もないわ」
ジョッキを空にして、新しく来たビールをまた呷る。
(もしも、目の前にいるのが今永じゃなくてちなみなら――)
一度だけ、大学生のときにちなみと居酒屋で酒を飲んだことがあった。
ちなみはチューハイを半分も飲めないほど酒に弱かったが、その日は珍しくちなみから飲みに誘われた。
「お母さんとお父さんね、一弥君との結婚に反対するの」
「一弥さんって彼氏の? どうして?」
「お前はまだ子どもだから十歳も離れている男と付き合うとはやめろだってさ。意味わかんない。もう二十一歳だよ」
「ほんとだね。ちなみは、専門学校出たら実家から通うの?」
よほど腹が立っていたのか、その日はチューハイを全部飲み干した。
「親はそうしてほしいみたいだけど、あたしは嫌だ。絶対に家を出てやる。そんで、一弥君と結婚するの」
ずっとずっとちなみは幸せを夢見ていた。両親の束縛を嫌って、好きな人と好きなことをして生きていたいと言っていた。
まさか一弥と結婚するとは思っていなかった遥希だったが、そのしたたかさが心の底から羨ましかった。
「わたしはさぁ、結婚に夢を見てないんだよね」
眠たげにぽつりと呟いた。
「どういう意味?」
今永は唐揚げをハイボールで流し込んだ。
「結婚したら、幸せになれると思ってるところが嫌いなの」
「いや、意味わからん」
「みんなが言う結婚したいってゴールじゃん。でも実際他人と共同生活するスタート地点なわけよ。破綻してしまう可能性だってあるのに、幸福な側面しか見ないようにしているの気持ち悪くて」
今永は首を傾げた。
「でも、信頼がないと結婚できないだろ」
「信頼してた人が不倫してたら? 暴力を振るったら? っていうか結婚すれば一人前って考え方がわけわかんない」
「それは、その人の見る目が……って寝るなよ!」
今永が会計をしてくれて、タクシーに押し込まれたことまでは覚えている。そこからのことは正直なんの記憶もなかった。
遥希が目を覚ましたのは、薄暗い部屋の中だった。無駄に広いベッドに、見たことのない内装の部屋。
頭が朦朧として、首を動かすのがやっとだった。
部屋には誰もいないようだが、シャワーの音が聞こえていた。音が止むと、半裸の男がシャワールームから出てきた。男は備え付けの冷蔵庫から取り出した缶ビールを、ソファーにもたれかかって飲み始めた。
(いまなが……? なんで? ここどこ?)
今永は目を覚ました遥希に気が付いた。
「起きたんだ。水、飲む?」
遥希は静かに頷いた。そして、なんとか身体を起こす。部屋をぐるりと見渡して、違和感に気付いた。酔っていた頭が急激に醒めるのを感じた。
「えっ、なにここラブホ!?」
突然叫んだ遥希に今永がびくりと振り返った。
「アンタわたしに何したの!?」
「まだ何もしてねぇよ」
「まだ!?」
「いや、まだっていうか……。家に帰そうと思っても家知らないし、なんかわけわかんないことずっと呟いてて話にならないからとりあえずと思って……」
「普通のビジネスホテルにすればいいでしょ!? ていうか、なんでちゃっかりシャワー浴びてんの!?」
「ベッドに入ったら汗臭いと思って……」
「意味わかんない!」
今永は気まずそうに頭を掻いた。
「あのさ、三十過ぎて結婚しようっていうの、あれ割と本気で……」
「信じらんない! 帰る!」
遥希はホテルを飛び出して、タクシーを捕まえた。
遥希にとって今永はただの同期で、友達でしかなかった。友情以外の感情を向けられているなど思いもしなかった。友達のままでいたかったのに下心など受け取りたくない。
家に着いてポストを開けると、封筒が入っていた。送り主はちなみからだった。
遥希は部屋に駆けこむと、すぐに封筒を開けた。可愛い便箋が四枚入っていた。
「はるちゃんへ。この手紙が届くころには私はもう亡くなっているでしょう……」
嫌な書き出しから始まる手紙には、ちなみが自殺をしようとした経緯が綴られていた。
ちなみの夫の一弥は、社交的で周りの人からの評判は良いが家ではずっと暴力や暴言を浴びせられていたこと。お金を渡してもらえず、働くことも許されず、自由がなかったこと。妊娠後、しばらくして流産してしまい、落ち込んでいたときもずっと人格を否定するようなことを言われ続けていたことなどが書かれていた。
つまり、ちなみの自殺の原因は一弥にあったのだ。
「それって、殺されたようなものじゃん……」
肉体的には死んでいなくても、心はめった刺しにされて、殺されてしまったのだ。
ちなみは両親と絶縁状態にあるから、実家に頼ることはできなかった。そして、自分自身のことだからと遥希にも頼らないようにしていた。
三枚目の手紙からは、遥希への感謝の内容だった。小学校のとき、友達がいなかったちなみに声をかけてくれたこと、ずっと仲良くしてくれていたこと、結婚のことを親身に応援してくれたことなど感謝が綴られていた。
「感謝しているのはこっちの方だよ……」
気が付けば目からは涙が溢れていた。
遥希が中学生のとき、母は父の不倫が原因で離婚した。両親の不和による葛藤や不安などを話すことができたのはちなみだけだった。ちなみがいなければ、きっと遥希は潰れていただろう。
(わたしはちなみに助けられた。わたしもちなみを何としてでも助けたい)
その夜は小学生のときの夢を見た。
「はるちゃん、これ」
ちなみから渡されたのは一冊のノート。当時人気だったキャラクターが表紙の交換日記だ。小学生の時、二人の間では交換日記がブームだった。
家に帰ってちなみの日記を読む。算数の授業が難しいこと、好きな男の子のことなど他愛もないことが書かれていた。余白のスペースには下手な絵。
遥希も早速次のページに日記を書き込んだ。大人気のアイドルの歌番組の話や、面白い漫画の内容など、取るに足りないことばかりだ。
「はるちゃん」
唐突に声を掛けられた。声のする方を探すと、大人になったちなみが微笑んでいた。
「はるちゃん、あたしのせいで赤ちゃん死んじゃった」
「なに言ってんの?」
さきほどまで小学生だった遥希の姿も、大人の現在の姿になっていた。
「一弥君がそう言っていたの。あたしが母親失格だから赤ちゃんはいなくなったんだって。何もかもあたしのせいなんだって」
急に遠くなるちなみの姿を追いかけるが上手く走ることができない。
「だからあたし、赤ちゃんと一弥君に償おうと思ったの。ばいばい」
手を振って消えようとするちなみの背中をがむしゃらに叫んで追いかけた。あと一歩で手が届くというところで、ハッと目が覚めた。
目元は濡れていて、呼吸もままならない。
嫌な予感がして、化粧もせずに病院に急いだ。会社を無断で休んだのはこれが初めてだった。
「ちなみっ!」
病室のちなみのカーテンを勢いよく開けた。そこには一弥とベッドから身体を起こしたちなみの姿があった。
「はるちゃん……?」
驚くちなみに、遥希は安堵してへたり込んだ。
「よかった……。よかった……!」
「関本さん、何かあったんですか?」
同じく驚く一弥に掴みかかりそうになりながらも、遥希は立ち上がってすました顔をした。
「いえ、なんでも。あの、少し二人で話したいので病室から出て行ってもらえますか?」
一弥が出て行ったのを確認したあと、遥希はちなみの隣に座った。
「手紙、届いたよ」
「そっか」
俯くちなみの手を遥希は力強く握った。
「意識を取り戻したとき、すごくがっかりした。自殺失敗したんだぁって。なんで生き延びちゃったんだろ。神様はいじわるだね」
あはは、とちなみは力なく笑った。
「そんなことはない。生きていれば、何度でも幸せになるチャンスはある」
「はるちゃん?」
目をぱちくりとさせるちなみを遥希は真剣な面持ちで見つめた。
「生憎わたしは独り身だからお金はある。ちなみがその気なら一緒に暮らすことだってできる。必要なら弁護士雇ったっていい。一緒に闘おう」
ちなみは顔を歪ませた。涙を堪えているようだった。
「ありがとう。そうしたいけど、一弥君が離婚を許してくれるかどうか……」
「大丈夫、絶対どうにかなる。どうにかする」
「でも、あたし、はるちゃんに何も返せないよ……」
不安げなちなみの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「今さら何の心配? 貸し借りじゃないよ。わたしは絶対ちなみの味方だよってこと。何も返さなくていいから、この言葉を絶対信じて」
ちなみは嗚咽を漏らした。声にならない鳴き声を上げた。返事はないが、これが返事だった。
これから一弥を呼び戻す。きっと一筋縄ではいかないことはわかっている。だが、二人でなら実現できると信じている。
不意に携帯の着信がなった。今永からのメールだった。
『昨日はごめん。本当に何もしていないし、する気もなかった。でも、結婚の件は考えてほしい』
遥希はふっと笑って返事をした。
『昨日のことは許してあげる。でも結婚の件は先約が入ったから無理』
結婚に夢を見たことはない。でも、一緒に暮らすのは案外悪くないかもしれない。
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