信じる

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信じる

 金曜日。わたしは学校に行くことにした。といっても高校生が行くのは当たり前なのだが、家を出るまでわたしは迷っていた。このまま家にいるか、学校に行くか、橋の下に行くか。  家にいるには一度出て両親と姉が出ていく時間帯までどこかに身をひそめていなければいけない。学校に行くなら昨日の出来事を踏まえて覚悟しなければならない。橋の下に行くなら土日もずっと行かなかった今日のことを気にしてしまうかもしれない。  理由を並べてみたが、結局家にいるとしても橋の下に行ったとしても同じ、学校のことを気にする可能性があるのだ。ならばとわたしは学校を選んだ。心配するほどのことはわたしの人生には起きないと思っている。そんな平和ボケした脳みそが大丈夫だろうと安直な考えを持たせる。救われている部分もあるが。  なるべくクラスメイトとの接触を避けるために、登校時間ギリギリに行くことにした。遅刻してさらに目立ちたくないし、案外黙って隅の方にいればみんな気にしなくなる。他人よりも自分が一番大切なのだ。  チャイムと同時に入る。みんなも自分の席に戻るタイミングでちょうどよかった。真惟や珠恵はすぐに気づくかもしれないがわたしは見られているかもしれないという自意識過剰な部分をシャットアウトし、ちっちゃくなって座っていた。  いつもはチャイムの前にはいるはずなのだが、まだ瀧口先生は来ていなかった。それでもみんなおしゃべりはするが席を立ったりはしない。ちょっとお調子者の男子が飲み終わったペットボトルを捨てに立っているくらいだった。  おはようございますと隣のクラスから壁越しに聞こえてくる。みんなが次第にわたしの方をみてひそひそ話しているのがわかった。なんか妙に声が小さく、断片的に聞こえてくる『来てる』『おかしい』などの単語がわたしに向けていわれているように思いこんでしまう。たぶん、そうなんだろうけど。 「おはよう」と瀧口先生が入っていきた。その後ろに、沢井さんがいた。絵を破られた光景を思い出してカッと身体が熱くなった。瀧口先生は教卓の前でみんなを見回し、左手のひらを沢井さんに向けた。 「久しぶりだがみんな覚えているよな」  沢井さんは石像のように動かなかった。足元をじっとみつめ、誰の顔も見ようとはしていなかった。 「えー、このたびご両親のご都合で転校することになった」  えっと声を出しそうになって慌てて口をつぐんだ。恥ずかしくなって横目でチラッと様子を伺うと気持ち悪いくらい静かだった。静かすぎる。わたしが経験してきた中では、クラスメイトが転校するという知らせを受けたとき、わっと空気が変わるような感じがいつもしていた。それは小学校でも中学校でも同じだった。高校生だから、大人になるってこういうことなのか。 「来週まではいるらしい。みんな寂しくなると思うが、残された時間で悔いのないよう思い出を作ってくれ」  違うと思った。瀧口先生の決まり文句みたいな挨拶に違和感を覚え、再度右目でクラスメイトをチラッと見て分かった。  みんな何とも思っていないんだ。沢井さんは不登校で、一学期にいたといっても親しくはない。むしろめんどくさいぐらいに思っていたのかもしれない。それなのに『みんな寂しくなると思うが』なんて言葉はただのボケだ。『寂しくないよ』とツッコんで笑いが起きるようなそんなノリにすら思えた。 「じゃあ沢井、なんか一言を」  振られたが沢井さんは微動だにしなかった。そのまま何を言い出すのかとみんなの緊張感が空気に乗った。音を立てることがタブーの場所かのようにみんなじっと黙って沢井さんの言葉を待った。 「……転校します。今までありがとうございました」  頭を下げた。そしてそのまま歩き出した。拍手すらなく、何の反応もないまま沢井さんがからんと椅子を引き、座った。その瞬間、息を吐ききっていた苦しい状態から解放されたようにふわっとみんなの緊張感が解けたのが肌でわかった。  ほっと息を吐いたのが聞こえた。隣の席からだろうか、後だろうか。その瞬間、椅子を引きずりながら立ち上がってしまった。みんなの視線がわたしに集まる。沢井さんも驚いた表情で見ていた。 「柿原、どうした?」  どうもしていない。とっさに立ち上がってしまった。何をいいたいわけでもない。何かをしたいわけでもない。誰かが息を吐いたのを聞いて反射的に立ち上がってしまった。つばを飲み込む音がやけに大きく感じた。 「柿原?」  瀧口先生の顔が爽やかだった。まるで絵を描き終わったときのわたしの顔のように。 「そっか……」  瀧口先生はほっとしているんだ。絵を描けないと思っていたわたしが描けてほっとしたように、先生も沢井さんがいなくなってほっとしている。先程聞こえた息を吐く音もほっとしたからだ。それはまるでいなくなってくれてよかったといっているようなものじゃないか。 「最低だよ……」  絵を破られて沢井さんに腹を立てているはずなのに、沢井さんのために腹を立てている。何がしたいのかもわからない自分の行動にも腹が立っている。めちゃくちゃだった。  それからわたしは座り、いつの間にか授業が始まっていた。  授業も頭に入らない。ペンを親指と人差し指で転がしていた。板書もノートに書き写す気になれなかった。わたしは何がしたくてあんなことをしたのだろうか。みんなに向かって最低だなんてわたしがいえるだろうか。たぶんみんなからは反感をかっていると思う。昨日流れたわたしの過去。トラウマともいうべき出来事の方が最低だと、お前がいえる立場かよと、思っているに違いない。  多くの人は受け入れたくない事実があると、自分のことを棚に上げて、相手の粗を探して指摘してくる。いや、お前だって、と。今がまさにそうだった。人のことをいえる立場ではないのだ。こんなわたしが何をいったってどうにもならない。何がしたいかわかったとしても、何かできるだけの力がわたしにはなかった。  そんなことを考えていると授業が終わった。各々が次の準備を始める。黒板を消したり、教科書の出し入れをしたり、トイレに行ったり。その中にわたしへのひそひそ話も含まれていた。待ってましたとばかりに皆がこぞって話し始めた。わたしは机に突っ伏して寝たふりをしていた。次の授業が始まればまた何もない時間ができる。それをあと五回ほど繰り返せば土日を迎える。休みだ。  それにしてもよく飽きないものだ。わたしの過去の話なんて面白くもなんともないのに。それでも十分間の暇つぶし程度にはなるのだろう。わたしが生贄にされて。  バンっと机が叩かれる音が聞こえた。驚いて頭を転がしそっと周囲の様子を盗み見た。沢井さんが立ち上がって後ろの席の人を食い入るように凝視していた。 「それ、本当なの」  声が少し震えていた。ちらっと沢井さんの後ろの席の人がわたしの方を見て、うんと戸惑いがちに首を縦に振る。沢井さんと目が合った。 「最低だ……」  こわばった表情のまま立ち尽くしていた。 「よーし、みんな席に、」  次の授業の先生が教室に入ってきていいかけた言葉をとめた。 「ど、どうした沢井」 しどろもどろ手に持っていた教科書をせわしなく振っていた。沢井さんはそんな先生の言葉を無視するかのようにわたしだけを見つめていた。 「大丈夫か? 具合、悪いのか? 保健委員」 「はい!」  ガタンと驚いたような椅子の音が鳴った。背筋は伸びていてはきはきした返事をした。 「沢井を保健室に、」 「大丈夫です」  みんなの視線が沢井さんに集中する。臆せず「大丈夫です」と二回いった。そうかと先生は数秒迷った様子の後、教卓に教科書を置いた。立っていた保健委員は糸が切れた操り人形のように椅子にへたり込んで息を吐いていた。その姿にもわたしはイラっとした。  それから授業が終わるたびに沢井さんはわたしの方に視線を向けていた。さすがに授業中まではなかったが昼休みになって教科書をしまう暇もなく腕を引っ張られながら玄関に着いた。 「ちょ」  上靴のまま外に引っ張られる。事務室のおじさんは新聞紙を見ていて気付かない。いいのかなと思いながらも引っ張られるがままにわたしたちは自転車置き場に来ていた。  沢井さんはずっと地面を見つめていた。眉間にしわを寄せている。顔よりも頭部が見える。 「なんで、あんなこといったの?」  やっと口を開いたと思ったらえらく抽象的だった。あんなこととは何かと一瞬考えたがすぐに思い立った。おそらく朝のことだろう。それ以外今日わたし話してないし。 「それは……」  なんて伝えるべきだろうか。みんな沢井さんが転校することにほっとしていてそれに気づいて腹が立っていて、なんていっていいのだろうか。ほっとしているというのはあくまでわたしの主観だし、もしかしたら違うのかもしれない。確かめたわけでもないし内容がいいわけでもない。そのままいってしまえば沢井さんは傷ついてしまう。 「え……」 「えっ?」  声が漏れた。オウム返しをした沢井さんの顔が必死だった。わたしは何かをいおうとしたわけではない。気づいたのだ。昨日までは沢井さんを傷つけようとしていたのに、今は沢井さんを傷つけないようにしようとしている。その矛盾した感情に驚いてしまったのだ。わたしは一体どっちなのだろう。どっちがわたしの本心なのか。 「そっちこそ、なんであんなこといったの?」  顔の角度が斜め上に向いた。きっとあんなこととは何かに気づいていないのだろう。そんな顔をしている。 「ほら、『最低だ』っていってたじゃん」 「その……」  言い淀む。手を前で組み、指がせわしなく動いていた。言葉を探しているかのように瞬きをしていた。 「ゆか!」  後から声をかけられた。顔だけ振り向くと真惟と珠恵がいた。先生と話した日ぶりに話しをする。少し緊張してきた。 「ゆか、ごめん」  勢いよく頭が下がり、髪が後に続いていた。 「オレ、考えたんだ。なんでゆかがずっとオレたちに秘密にしていたかって。何か事情があったんだよね。それを一人でどうにかしようとして、戦っていたんだよね。ゆか優しいから、沢井を放っておけなかったんだよね。でも大丈夫だよ、もう少しの辛抱だから」  辛抱ってなに、それじゃまるでわたしが我慢してるみたいじゃん。 「それにオレたちがいる。もう事情も知ってるし、何でも力になるよ。それにあの噂は、信じてないから。ゆかはそんなことをするやつじゃない。だって、絵を破るなんて最低なこと普通しないよ。オレはゆかを信じる」  それは本当に信じられているのだろうか。ゆかりはそういう人だって信じている自分を信じているみたいで、わたしには独りよがりなものに思えた。全然わたしをわかってくれてない。凝り固まった真惟の中のわたしが真惟の決めつけに押しつぶされて歪んでいる。 「ゆかりはそんな人じゃない」  わたしの前に立ちはだかるようにして沢井さんが出た。柿原ゆかりではなく、ゆかりと呼んだ。 「勝手に決めつけて、ゆかりを語るな」 「なに、お前こそ勝手に口を出さないで。これはオレとゆかの問題だから」 「そんなの関係ない。大して知りもしないでゆかりを知ったような口聞くな」 「お前よりは知ってるよ」 「そんなことない。知ってるなら、ゆかりをそんな風にはいわない」 「お前だって、」 「おまえおまえいうな。私は沢井みちだ!」 「だからなんなの、どうせ転校するくせに!」  カチンときた。 「転校するから、なに?」  急な割り込みに二人の視線がわたしに向いた。 「なにって、ゆかが……」  やっぱりそうだ。真惟もみんなと同じ、沢井さんが転校することにほっとしているのだ。わたしがっていっているけど言い訳だ。  真惟は違うと思っていた。そんなことをいうわけがないって、わたしも真惟を決めつけてた。自分をつくれるのは自分だけ。真惟をつくるのは真惟。わたしをつくるのはわたし。ならわたしは。 「わたしは……」  寂しい。沢井さんが転校してしまうことを、寂しいと思っている。いなくなってほしくない、もっと知りたいし、もっと話していたい。だから。 「友達のことを悪くいう人は、嫌い」  曖昧なことをぼかさずにはっきりとした。そして。 「わたしを語らないで」  沢井さんと同じことをいった。沢井さんと同じ意見だということを証明するために。 「オレだって、ゆかなんか嫌いだ」  身を翻して真惟は歩き出した。追うことはできない。わたしから壁を作ったのだから。後には引けない。  珠恵は真惟の背中を見つめていた。追うことも、わたしたちに近づくでもなく、ただじっと突っ立っていた。 「……ごめん」  沢井さんが小さくつぶやいた。 「昨日、描いてもらった絵、破いて……ごめんなさい」  拗ねた子供のように唇を尖らせていた。頬が赤くなっており、声も心なしかいつもより小さい。謝っているというよりも異性に好きと恥ずかしくいっているようだった。 「本当に思ってる?」 「お、思ってるよ!」  なぜか逆切れされた。眉間にしわを寄せて本気で怒っているみたいに怖い顔をしていた。そして口が歪んだ。唇を噛みしめて首がえらを貼ったかのように変形した。顔を引きつらせ、鼻をすすり始めた。 「おも、て、るよ……ちゃん、と……」  声を詰まらせている。目に涙をため、そしてあふれ出た。隠そうとしたのか下を向き、頭を下げているかのような体制になっている。涙は地面にたれ、雨の降り始めを知らせるようにしみを作っていた。  そして突進してきた。 「ちょ、」  びったりとわたしに抱き着き、叫びだす。 「ごめん、なさい。わ、わたし、本当に、ごめんなさあああぁぁぁ……」  最後の方はなんていっているか聞き取れなかった。 わたしはどうしようかと迷った挙句に、頭をなでることにした。 「わたしも、ともだち……さびし、い……いやだ、ご、めんな、さい……」  わたしもひどいことをいった。それに、たぶんわたしはもう怒っていない。 「またわたしが泣かせてるとか噂されちゃうなぁ」  いつまでも泣いている沢井さんの背中も追加で撫でながらつぶやいた。 「……また?」  しっかり聞いていた。というかそうだ、知らないんだったと思い、顔を下に向けるとカーディガンに鼻水がべっとりついていた。あーあ、と笑った。  今こうして沢井さんといることがちょっと不思議だった。橋の柱に隠れて、見つからないようにしていたあの頃と比べて、今は自転車置き場なんてずいぶんとオープンの関係になったものだ。
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