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私を作るのは私
困った。
放課後、橋の下に行くと沢井さんが手を振って出迎えてくれた。ご所望だったわたしの絵を受け取り、ずっと食い入るように見つめている。すでに30分は経っているのではないかというくらいに感じられた。
ちらっと沢井さんの横顔を盗み見る。今日も沢井さん曰く、さけるチーズ。何でこんな格好をしているのかわたしにはわからない。沢井さんなりの事情があって、その結果がさけるチーズなら聞くべきではないのだろう。でも、聞いてみたい気もする。
以前珠恵から『犯人が全て悪いって思えないんだよね。犯人にも犯人なりの事情があるし、もし犯人目線で物語が語られていたら逆に主人公が犯人なんだよ。つまり主人公と犯人は紙一重の存在なんだよね』と話していたのを思い出していた。こんな話をするもんだから真惟が珠恵のことを『ミステリーオタク』というのだが、それは置いといて。今は沢井さんに聞くべきかという話だ。
珠恵の話的にいえばわたしが聞くかで主人公にも悪役にもなり得る。わたしは沢井さんを知っていて、沢井さんもわたしを知っている。しかしそれは表面的なものだけで詳しくは知らない。わたしは沢井さんの詳しくの部分を知りたいのだろうか。さけるチーズとか、さけるチーズとか、あとはさけるチーズとか。絵をネットに公開するという脅迫だけでここにいるだろうか。
たとえばさけるチーズについて聞くことができないとわかったらどうだろうか。絵も回収して何の脅迫もない状況になったとき、わたしはここに来るだろうか。
たぶん来ると思う。わたしは好奇心を抱いている。不登校という人に。わたし自身、中学時代に学校に行きたくないなと思ったこともあるが、不登校になるまでの確固たる意志はなかった。高校はどうするのか、勉強はどうするのか、もし復帰したら、両親はどう思うか、将来はどうなるのかなど四方八方から尽きない不安には耐えられる人ではない。それらを知ってか知らずかはさて置いて、わたしは不登校という状況下にいる人のことを知りたいのだ。知りたいのだが、さて、どうしたものか。
視線を川に移した。橋が夕日を遮り、川の中が見える。影と光の境目を越えるとオレンジ色の空が水面に映っていた。陸地との隔たりとなっている石は、その隙間に生えている草にくすぐられているようだった。
くあっとあくびがもれた。その反動で息を吸うと自然のにおいがした。
「沢井みちはコーヒーはブラック派」
あくびが不完全燃焼。少しだけ驚いて沢井さんの方を向くと目があった。
「あ、そうなんだ」
「うん」
再び絵に視線を落とし、そのまま動かなくなった。
そもそもわたしがここにいる必要はあるだろうかと今更ながらに気づいた。ただ絵を見るだけならまた渡してそのまま帰ればいいのではないか。こんなに永遠と思慮にふける必要はないんだ。これから餌付けするみたいに絵を渡すことで沢井さんについて聞けることができる仲に進展していくのではないか。
わたしの視線がうっとおしかったのか再び目が合う。そのまま見つめ合った後「あぁ」と沢井さんがつぶやいて両手を広げた。
「どう?」
「どうって?」
「似合っている?」
似合っているといわれても困る。顔立ちがいいからきっとどんな服でも着こなせるんだろうけど、さけるチーズが似合っているかどうかはわからない。そもそも似合う人ってどんな人だ。
考えていると急に立ち上がり、くるりと一回りして見せた。いや、三百六十度まったく同じなんだけどね。沢井さんの思考自体がわからない。
「まぁ……いいんじゃない」
本人が着たいのであれば、という意味合いで濁した。わたしの回答に満足したのかふふんと鼻を鳴らし、どこまでが胸か分からない胴体を張っていた。
何だこれ。
沢井さんとのやりとりが不毛にしか思えない。ぼーっとしているよりも時間の無駄。結局あれやこれやを聞くまで関係性を進展させることはできないだろうと早々に判断した方がいいのかもしれない。相手の意図を汲みとれるほどわたしに推理力はないし粘り強くもない。珠恵みたいにミステリーが好きなら燃える展開かもしれない。そもそもそんな展開がどのようなものかは知らないけど。
わたしは小脇に鞄を挟み、立ち上がった。手を広げたままわたしを見つめてくる沢井さんに「じゃあそろそろ」といって歩き出した。しかし、スライドしてきた沢井さんの腕によって行く手が阻まれる。何をいうでもなく無言のまま立ち尽くしていた。
「えっと……」
帰るな、ということなのだろう。でも明日も学校だからという言い訳はよくないのかもしれない。沢井さんにとっての皮肉になってしまう。ならどんな言い訳なら納得してくれるだろうと考えていた。沢井さんといると考え事がはかどってしまう。わたし自身悪いことではない。ただ言われたことだけをしている人はダメだとお酒に酔った父親がいっていた。確かにそうだ。だからわたしは考えるのだが、こうも時間がありすぎるといらないことまで考えてしまい、かえって不安になってしまう。
たとえば、帰らせてくれないのはわたしが沢井さんの衣装について適当に返事したから怒ったのではないか、とか。でもなあ。
さけるチーズといわれて、それを似合っているかどうかなんてなんて答えれば正解なんだろう。お世辞をいって柿原ゆかりに褒められたなんて口外されたらわたしの人間性に関わってしまう。関わってしまうのか。
「沢井みちは学校に行ってないんだ」
「……え?」
「沢井みちは学校に行ってないんだ」
いや、聞こえなかったとかではなくて。いきなりカミングアウトをし始めた。え、なんで今。
「知ってるけど」
「え?」
「同じクラスだし」
「あ、あぁ……」
腕は広げたまま手首から先だけがだらんと折れた。感情とつながっているのかな。
「その……聞いてこないんだね」
「まぁ」
「気にならないの?」
「気にならない訳じゃないけど、聞いていいのかなって」
「なんで?」
「なんでって……」
報告を怠って問いつめられているかのようだった。つまり、聞いてほしかったということなのだろうか。
「聞いていいかもわかんないし」
「何それ」
声音が変わった気がした。今まで上方向に発していたような感じだったが、急に地面を叩くような感じ。要は低くなったということ。
「今更そんな気をつかうぐらいなら初めからつかってよ。たいして興味なさそうにしてたくせに」
怒りだした。興味なさそうにしていた、はたぶん正しい。実際興味はなかったし、他の人と同じように面白がったり引いたりはしなかった。それが気にくわなかった、気にしてほしかったということなのだろうか。まぁ怒ってるし。
「何も知らないくせに、勝手に決めつけて私を語らないで」
沢井さんは金縛りがとけたかのように広げていた手を下ろした。そして右腕を抱くように左手で押さえていた。
「私をつくるのは私だから」
はっきりとした口調で沢井さんは言い放った。
ドキッとした。
同じだ。わたしと同じ。
背中を向けて去ろうとしていた。
勝手な人物像を勝手に、何も知らない人に決められて悔しい気持ちは痛いほど分かった。かつて経験した苦い記憶が沢井さんの背中に写った。まるで過去の自分を見ているような気さえした。
引き留めなければと思った。
何かいわなければ、何か。
「わたし!」
カラスが鳴いて飛び去った。思ったよりも声が出ていたのか、沢井さんは振り返り、足を止めていた。
「あ……」
口元を押さえている。もしかしたら沢井さんが自分のことを『私』といっていたことかもしれない。なぜ沢井さんが自分のことをフルネームで呼ぶのかも知らない。なぜ沢井さんがさけるチーズのコスプレをしているのかも知らない。なぜ沢井さんが学校に来ないのかも知らない。知らないことだらけで、唐突に何かを言い出すちょっとおかしい人だけど、たぶんわたしと似ているんだろうな。
『私をつくるのは私だから』
わたしもそうだと思っているから。だから。
「わたし、絵が描けないんだ」
謝罪の意も込めて、わたしはわたしを教えることにした。もしここで沢井さんを引き留めなければ、過去に嫌なことをしてきた人たちと同じことをしている人になってしまうと、それだけはしたくなかった。自己満足かもしれない。それでも、満足できるならいいかな。
「バカにしているの?」
「してない! えっと、その……描けないというか、わからないの。本当の線が」
「……どういうこと?」
沢井さんが身体ごとわたしに向き直った。わたしは自分の鞄からスケッチブックを取り出し、適当に開いたページの絵に指をあてた。
「この中でどれが正しい線なのかが……わからなくて、その、これ以上描けないってこと」
「つまり?」
要領が悪かった。自分でもいきなりこんなことをいわれてもわからないだろうなと感じる。
「つまり……わたしはこの絵の人物じゃないからどの線が正しい線なのかわからないというかそもそも決める権利はないっていうか……同じだから、わたしも、わたしをつくれるのはわたしだけって思っていて、だから、」
「わかった!」
遮られた。伝わらない説明に飽きたのかもしれない。もういいよ、わからないからというわかったかもしれない。しかし沢井さんの顔は先ほどとは違い、ニコニコしていた。駆け足で近づいてくる。一歩たじろぐ間もなくわたしの両肩が掴まれる。
「あのね!」
肩が痛い。細い腕からは想像もできないほどの力だ。
「実は今日のこれ、とうがらし味なの!」
わたしには何が分かったのか分からなかった。ただわたしと沢井さんが同じ考えだということだけは分かった。
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