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噂
久しぶりに夜更かしをした。時間を忘れて絵に没頭する感覚も久しぶりだった。まだ眠い目をこすりながら学校に向かうと、もしかしたらまだ夢の中にいるのではないかという事態が教室で起こっていた。
「いいかげんにしろよ」
怒鳴り声が階段まで聞こえた。誰かがケンカしてるのかなと軽く考えながら階段を登ると、自分の教室の前に人だかりができていた。わたしを見るやいなや教室の中に誘われるように道があいた。
「お前が流してるんだろ!」
教室の後ろ、窓側には真惟と中津川さんがいた。それを傍観するように珠恵が腕を組んで立っており、それよりも後ろの距離で三人を囲うようにしてクラスメイトたちが行く末を見守っていた。
「あ、ユーカリ、おはよう」
場の空気にあわない陽気な声で挨拶をし、手なんか振っている。珠恵によってわたしに注目が浴び、真惟の鋭い視線までこちらに向いている。
「ちょ、何事?」
慌てて輪の中に入り込んだ。「えーっとね」とこれまたのんきに珠恵が説明しようとするのを遮り、怒りをあらわにした声で真惟がいった。
「こいつがデタラメな噂を流したんだ」
「だから知らないっていってるでしょ」
「嘘つくな、ゆかが人を泣かすわけないでしょ」
泣かすでわかった。おそらく昨日のことだ。
「ちょっと、ストップ!」
止めようと大きな声を出しても真惟は聞く耳をもたずに中津川さんを睨みつけていた。お前だろ、知らないの繰り返しで一向に進まない。今にも殴りかかりそうな勢いだ。
「珠恵も手伝ってよ」
「手伝ってもいいけど私にできることなんて無いよ? それにマイマイは聞く耳持ってないし」
「それでもどうにかしなきゃ」
「真実がわからない限り私は何もいえないよ」
「そっか」
わたしは大きく息を吸った。真惟に向かってぶつける勢いで言い放った。
「わたしは泣かしてない!」
「ちが!」
珠恵がわたしの肩を掴んだ。青ざめた顔が視界に入った。
「やっぱり!」
今度は真惟の声が聞こえた。視線を戻すと今にも食らいつきそうな勢いだ。あっと思った瞬間にはもう身体が動いていた。
「デタラメな噂を流すな!」
キィンという耳鳴りがした。視界がかすみ、遅れてひりひりした痛みが頬に走る。気づいたときには床に倒れ込んでいた。涙がにじむ視界には脱力しきった真惟と口を押さえていた珠恵、無表情でわたしを見つめる中津川さんだった。
「何事だ!」
喧騒の中ひときわ目立つ声だった。生徒をかき分けてくる瀧口先生のサンダルが見えた。わたしがとっさに立ち上がろうとすると中津川さんに腕を掴まれて勢いよく引っ張り上げられた。
「あんたが悪いんだよ」
そう耳打ちされた。何がと聞き返す前に瀧口先生が輪の中に入ってきた。そして涙を流しているわたしを見て「何があった」と詰め寄ってきた。
「オ、オレが、」
「いえ、何でもないです」
はっきりとした口調でいった。先生の視線はわたしに向くが目を細めて「何があったんだ」と問い直してきた。
教室内がしんと静まる。みんな誰かの発言を待っているかのように息をのんでいた。先生の目はわたしから離れない。じっとわたしが本当のことを吐くまで見ているのだろうか。なおも口を開かないわたしに根負けしたのか「柿原、保健室に行った後、職員室に来い」といった。
「先生、オレです! オレがやりました」
せっかくかばったのに。
「そうか、なら橘も来い」
「先生、私もです」
珠恵は違うでしょ。
「門田もか、他にいるのか?」
瀧口先生が教室内を見回す。真惟は信じられなものを見るかのような表情で中津川さんを見ていた。
「じゃあ早く柿原は、」
「お前っ!」
真惟が拳を握りしめながら中津川さんに近づこうとした。しかし、瀧口先生が間に入ったことで真惟が足を止めた。
「中津川もなのか?」
視線が中津川さんに集まった。瀧口先生の後ろで鬼の形相で睨んでいる真惟は今にも殴りかかりそうな勢いだ。
中津川さんは答えなかった。はいともいいえともどちらともいわずに、ただ瀧口先生を見つめていた。はぁっとおもむろにため息をついて「じゃあ中津川も来い」といった。
「ほら、朝のホームルームが始まるぞ。みんな席に着け」
手を二回ほど叩いたのを合図に固まっていたクラスメイトたちがそれぞれに移動し始めた。中津川さんが私の耳元で「許さないから」とささやいた。
「柿原大丈夫か? 早く保健室に行ってこい」
「あ、はい」
「先生、ゆかりに付き添います」
久しぶりにあだ名ではなく、名前で呼ばれた。少し迷った感じだったが「じゃあ頼んだぞ」と付き添いを承諾した。
わたしと珠恵は保健室に向かう。一歩前を歩く珠恵が急に立ち止まった。
「ごめん、伝え方が悪かった」
そして頭を下げてきた。おそらく謝るために付き添いを申し出たんだろうなと思った。
「真実っていうのは誰が噂を流したかって意味だった」
「いや、わたしもはやとちりしちゃったし」
「それでも、私があんな雑にいわなければ……」
「そんな、もう大丈夫だから、ね」
何が大丈夫なのかわからなかったが、ついそういってしまった。しかし一向に顔をあげる様子はなかった。
「こんなところ誰かに見られたらまた噂されちゃうから」
噂に反応したのか、ばっと勢いよく頭を上げて周りを見回し始めた。ホームルームが始まっているらしく、廊下には誰もいなかった。
「早く保健室に行こう」
このまま話しているとまた何かをいい出しそうなので、わたしは珠恵の前に出て歩く。
その後は特に会話もなく、保健室で氷をもらい職員室に向かった。
「なんかユーカリ、変わったね」
「え、変わった?」
思い当たる節がない。とくに変わろうと意識した覚えもない。
「いや、ただ知らなかっただけかもしれないね。ユーカリがあんなにはっきりと誰かにいっているの、初めてみたから。いっつもぼーっとしてて、基本受け身だから、ちょっと驚いた」
そして「いいなぁ」と小声でつぶやいていた。
珠恵はそれから終始無言のままわたしの後ろを歩いていた。
わたしはいいなぁといわれるほどの人間ではない。それは一番わたしが分かっていてる。あのとき先生にいったのも全部わたしが弱いから、とはいえない。
職員室に着いてしまったが、入りたくなかった。自宅でゲームをしているであろう沢井さんがうらやましかった。
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