素描

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素描

 厳重注意で終わった。  わたし以外の三人とも成績がよく、わたしを含めた四人が今までの生活態度は問題なかったとして一時間目が終わる頃に教室に戻れといわれた。次はないぞと念押しされたけど。  結局はっきりとした答えはわからず真惟は中津川さんが噂を流した、中津川さんはそんなの知らないの一点張りで両者が一歩も引かなかった。暴力を振るおうとしたことに関しては非を認め、それはわたしと珠恵が原因だということを二人で訴えた。  教室に戻ると視線が痛かった。みんなどうなったのか結果が気になるようだが聞いてはこない。沢井さんが嫌うのはこれか、と納得した。  そのまま放課後まで何もなく過ぎた。必ず「また明日ね」といいに来る真惟の姿はなく、珠恵もたった今教室をでていくところだ。昼休みも三人別々だった。  沢井さんに会いたい気持ちでいっぱいだった。  早足で教室を出た。階段を駆け下り、下駄箱に向かう曲がり角で誰かとぶつかりそうになった。 「すいません!」  反射的に謝った。顔を見ると知らない人だった。首に掛けている来客者用の札を見て納得した。わたしの顔をまじまじ見つめていた。 「気をつけなさいね」  背筋が伸びるような声だった。「はい、気をつけます」といってから会釈をしてすれ違った。かっこいい人だった。  そしていつもの場所というほど何度も足を運んでいる橋の下にはすでに沢井さんがいた。今日もいつもと同じ格好をしている。その変わらない光景に安堵した。 「えっ!」  沢井さんはわたしの顔を見るや否やどうしたのと勢いよく立ち上がって駆け寄ってくる。「もしかして……突っ伏して寝過ぎた?」なんて言い出すものだからつい吹いて笑ってしまった。 「いや、それでこうはならないよ」  不意にふれてしまった頬がちりっと痛んだ。「いっ!」と顔が反射で歪むと「大丈夫?」と心配してくれる。沢井さんのとなりに腰掛けた。  沢井さんは何も知らない。学校で何があったのかも、わたしの過去も。だからわたしは何もなかったと偽ったわたしでいられる。  珠恵の言葉の真意を勘違いして真惟に叩かれた情けないわたしも、珠恵にいいなぁといわれたも素直に受け入れることができない弱いわたしも、渡辺さんを許さないわたしも、中津川さんに許されないわたしも、全部知らない。だからこそ、わたしはわたし自身をつくりだせる。そしてつくりだしたわたしでいられる。この場所で沢井さんと一緒にいることはすごく居心地がよかった。 「沢井みちは考えました。もし学校に行ってたら柿原ゆかりと仲良くなっているのかなって」 「うーん、どうだろうね。実際一学期全然話してないし」 「あ、そっか。なら学校に行ってなくてよかった」  うんうんと一人腕を組んで頷いていたが、それだけではない。 「それならさ、もしわたしがあっちにいても会っていなかったね」  指をさして反対側の橋の下を示した。 「ここと変わらないのにこっちを選んだ」 「お互いが一つでも違う選択をしたら今はない。そっか、そうだよね。なら沢井みちは正しい選択をした」  出会ってよかったとわたしを励ましてくれているのだろうか。わたしの頬をみて、気を遣ってくれたのかもしれない。 「ねえ」 「何?」  沢井さんは正しい選択をしたといった。それは今の状況全てをさしているのだとしたら、と聞きたいことが頭によぎった。聞くかどうか迷った挙句に聞くことにした。心配に漬け込んだのかもしれない。 「学校に行かないってどんな気持ち?」  前に決めつけたような言い方をして怒られたことがあった。でも質問形式ならいいことは知っていた。それに遠慮して少しでも後ろめたさあを含んでいるとそれを敏感に察知してくる。だから純粋に知りたいという気持ちを前面に押し出して聞いてみた。 「……そうだなぁ」  沢井さんはちらっとわたしの頬を見てからすぐにそらした。沢井さんもわたしに行きたくないのとは聞かない。それは決めつけだから。話していて相手のいうことはわからないけど、絶対にいわないことを予想できるのは逆に楽だった。少し考えればいわれたくないことをいわれないで話すことができるから。 「不安だよ」 「あ、そうなんだ」 「そりゃそうだよ」  勉強はちゃんとしてるけどねとつけたしてきた。意外だ、といえば怒るんだろうなと心の中で反応を予想して笑った。でもそっか、不安なのか。 「でも、沢井みちは沢井みちがわからないほうがもっと不安かな」  沢井さんが自分のことをこんなふうにいうにいたった何かを知りたくなった。でもわたしのことをいわずに聞くのは不公平だ。だから聞かない。聞いてほしくないから。その変わりに「で、成果の方はいかがですかな」とおちゃらけてみた。 「うーむ、全然ですな」  同じ口調で返してきた。そして二人顔を見合わせて笑った。 「柿原ゆかりはいいよね」 「ん?」 「絵、描けるじゃん」 「いや、下手くそだよ」 「それでもさ、何か得意なこととか好きなことがあるってそれだけで沢井みちより進んでるよ。装備が揃いつつある、みたいな?」 「装備って、ゲームじゃないんだから」 「じゃあ……カケラかな。パズルのピースでもいいよ、ありきたりな表現だけどね」  自分のパズルがあったとしたら完成するのはいつだろうか、と考えたときふと祖父を思い出した。 「何で絵を描き始めたの?」  次は自分の番とばかりに質問してくる。まぁこれくらいならいいかと、祖父の話をすることにした。 「祖父の影響かな」 「へー、おじいちゃん」  ちょっと背伸びして祖父なんていったけど沢井さんは砕けた表現をした。見栄張って損したけど変えずに続ける。 「そう、絵を描くのが好きでさ。祖父の家が近くてよく遊びに行ったりしててさ。そこで教えられた感じかな」 「へー、へー!」  興味津々だった。ここまでくいついてくるとは思わず、驚いた。 「でも厳しくてさ、ここの線が違うとかよく見ろとかうるさくてよく泣かされてたよ」  今でも覚えている。わたしの手に添えられた大きくてしわしわな手。ボコボコでゴツゴツしていたけど暖かかった。もう写真でしか顔ははっきりと思い出せないけど、その手と声だけはどうも忘れられそうになかった。 「小学一年生に普通怒鳴る? 悪いこともしてないのにさ。泣かせといて祖母には何でもないって誤魔化そうとするんだよ」 「いいないいなー! 会ってみたいな」  言葉に詰まった。つい語りすぎてしまったと思った。 「ごめん、もう亡くなったんだ」 「あ……」  沢井さんが固まる。沢井さんはごめんとはいえないはずで、それはわたしが悲しんでいるという決めつけになる。だから沢井さんが言葉を探し出す前に先手を打った。 「でもね、祖父が死ぬ前にこんなこといってたんだ。『人生とは素描だ。迷って同じところを何度も行き来して、繰り返し線を引くようにもがいていく。間違ったって直せるんだ。そして一つの道筋が決まれば、一本の線を引いていく。そうして全体を描いていって完成する。しかし、完成すればもう直せない。人間が死ぬようにな。だから迷ってもいいし、間違ってもいい。完成したときに後悔さえしなければいい』って」 「素描って?」 「デッサンのこと。簡単にいうと下書きかな」  へぇと沢井さんは声をもらした。そしてわたしを見つめている。 「あの時はずっと覚えてなきゃいけないと思って泣きじゃくりながら汚い字でメモしたなぁ」  初めて祖父の話を誰かにした。最近思い出すこともなかったから、改めて口にしてみると重々しいものがあった。死ぬ間際で祖父だからこそ言葉に重みが感じられる。わたしがいっても説得力はない。 「何回も復唱して覚えたけど、今はこんなんだよ」  だから、両手を駆使して精一杯の変顔をした。忘れていた頬の痛い。  一瞬ぽかんとだらしない顔をした沢井さんは頬をぴくりと動かしたのを皮切りに笑い出した。唾がわたしの顔にかかったが気にしなかった。とにかく今日は笑いたい気分なのだ。自ら辛気臭い話にしてしまったお詫びとして変顔を進呈した。 「柿原ゆかりの絵に惹かれる理由がわかった気がする」 「そう?」 「うん」  なんだか照れ臭かった。今までいわれたことのないこと。お世辞、話の流れ、失言のフォロー、色々思いつくけど素直に喜ぶことにした。 「あ、もうちょっとで出来ると思う」 「……あぁ、あの絵ね」 「沢、更科さん忘れてたでしょ」 「今沢井っていおうとしたでしょ」 「そんなことないよ」 「本当? じゃあ次間違えたら罰ゲームね」 「罰ゲーム?」 「そう、沢井みちのいうことを何でも聞くこと」 「ベタすぎない?」 「朝やってたゲームのなんだけど、やっぱりそう思うよね?」  職員室の前で予想したことが当たった。やっぱり沢井さんはゲームをしていたのか。 「じゃあもし呼ばなかったらわたしのいうことなんでも聞いてね」 「柿原ゆかりの方が有利じゃない?」 「そんなことないよ」  とはいいながらわたしも内心そう思っていた。しかし「まぁいっか」と沢井さんは納得した。 「何にしようかな〜、お揃いの服でお出かけもいいなぁ」 「え、まさかそれ?」 「うん、これ」  わたしは呼び間違えるとさけるチーズになるのか。 「うぇ」 「うぇとはなんだよ!」  あははと今日は本当によく笑う日だった。学校での分を補うかのようだ。  久しぶりにわたしに関する話した。わたしに欠けていたのは誰かに話すことなのかもしれない。気分はスッキリしていた。  そのまま二人並んで川沿いを歩いていた。あたりは暗くなり始めていたけどまだ話したいという思いから一緒に帰ることにした。沢井さんの家は近くはないけどわたしの家と方向が一緒だった。同じという共通点が見つかって少し嬉しかった。 「ねぇ」 「何?」 「今日はプレーンでしょ」 「よくわかったね」 「ふふん、曜日によって味が変わることはお見通しなのだ。明日は木曜日だからローストガーリック味かな」 「バレたか。じゃあ味以外の違うところは?」 「え、あるの?」 「あるよ」 「えっと……」 「ブー、答えは沢井みちのテンションでした」 「ずるっ」 「残念でしたー」  そういいながら走り始めた。ぺたんぺたんと足音が鳴る。お尻の部分だけ汚れた白い棒状のシルエットを追いかける。走ってしまえば早く着いてしまう。この時間が終わってしまう。明日と考えて、学校に行くのが少し憂鬱だった。  同じことを思ったのか、疲れたのか沢井さんの足音が次第に遅まり止まった。沢井さんの目の前に誰が立ち止まっている。学校でぶつかりそうになったあの人だ。 「更科さんどうしたの?」  今度は間違えずにいえた。ふふんとドヤ顔をしていると「更科?」と女の人がつぶやいた。 「みち」  びくっと沢井さんの肩が跳ねた。 「お母さん……なんで」  沢井さんは母親から目を逸らし、足元をじっと見つめていた。 「あなたは何をしているの?」 「……ごめんなさい」 「何を謝っているの? 質問に答えなさい」 「…………………」  まるで教師が出した問題に答えられるまで立たされて続ける子供みたいに小さくなっていた。 「昔のみちなら答えられたはずよ。なのになんで今は答えられないの?」  腕を組まずにいるのが妙に怖かった。小学生の先生に怒られた時、必ず先生は腕を組んでいて、怒っている側、怒られている側として分けられている。しかしこの状況だけを見ればはっきりと立場が分かれていない。追い詰めているみたいに感じた。 『あんたが悪いんだよ』  ふと中津川さんにいわれたことを思い出した。 「いつもいってるわよね。あなたの人生なんだから好きにしていいけど、いえないようなことはしちゃダメだって。いつも胸を張って、自信のもてることをしなさいって」  不登校なのに何遊んでいるのといっているような気がした。そしてあんたが沢井さんと遊んでいるのが悪いんだよとわたしまで責められている気分になった。何より今沢井さんがやっていることは胸を張れない、自信の持てないことだと決めつけているような言い方が気に食わなかった。 「あの」 「何かしら」 「そんな言い方よくないと思います」 「あら、じゃあなんていえばいいの?」 「それは……」  言葉に詰まる。考えなしに発言したのを見透かされているみたいだ。 「あのね、間違いは誰にでも指摘できる。ただ間違いを正す答えを持っていないなら黙っててちょうだい」  ぐうの音も出なかった。でも。 「いえます」  ここで引き下がりたくなかった。引き下がってしまえばわたし自身も沢井さんを責めることになるような気がしたから。  しかし、言葉は出てこなかった。悔しいくらい正論に思える意見に間違いを見つけることなんてできそうになかった。いくら考えてもわからない。いつもなんのために考えているのにこういうときには清々しいほど何も思いつかない。  喉が渇き、鼓動が速くなる。沢井さんの母親の鋭い視線がわたしを焦らせる。はやく答えなければ。この沈黙さえも沢井さんを追い詰めている。なんでもいいからと思うほど、何にもいえない。 「あ、」 「やめて」  遮られた。沢井さんの母親に、かと思ったが違った。 「やめて」  沢井さんにだった。しっかりとわたしを見つめていたが一瞬にして表情を崩し、そのまま隠すように走り去っていった。先ほどのシルエットとは随分違うように見えた。小さくて悲しげな背中だった。 「待って!」  追いかけようとした。しかし「みじめね」という声がわたしの足を止めるのに十分な力を持っていた。振り返ると何事もなかったかのように沢井さんが走っていった方向に歩き出していた。 「ちょっと待ってください」 「あなたに割く時間なんてないわ」 「それでもわたしは、」 「責任ももてない人の言葉なんて聞くだけ無駄だわ。その場しのぎのために取り繕った言葉じゃなくてあなたの言葉で話しなさい」  ドキッとした。わたしの言葉。この人がいう言葉には力が込められているような気がする。大人と子供の差を見せつけられているようで悔しい。 「イラついているのはあなただけじゃないのよ」  そのまま歩いていった。ヒールの地面を叩く音が痛く感じた。
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