過去のわたし

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過去のわたし

 何かに没頭して考えないようにするのが癖になっていた。  昔から嫌なことがあるとつい考えてしまうわたしは絵に逃げることが多かった。よく祖父が『絵とは真剣勝負だ』といっていた。だから絵と向き合っているときだけ他のことを考えないようにする癖がついていた。  そうしてわたしは沢井さんの母親に会った日、ご飯も食べずに絵を描いていた。沢井さんにあげる絵を完成させようとしたのだ。描いている途中、どうしても沢井さんのことがチラついてしまい、そのたびに描き直した。  雀がうるさいなと思った瞬間やってしまったと悟ったが、絵は完成した。そのまま眠い目を擦りながら学校の準備をし、描き終わった絵をクリアファイルに入れ、教科書の間に挟めた。顔を洗おうとして鏡に映った自分の顔はどこかスッキリしているように見えた。絵が描けるということにどこかほっとした自分がいた。  いつもよりも早く学校に着く。いつもなら大体八時十分ぐらいに着いて真惟と珠恵と話しているのだが、今日は七時五十分ぐらいだ。真惟はいつも何時に来ているのだろうと思っていたがこの時間にはまだ来ていなかった。  席についた途端眠気が襲ってきた。瞬きの回数が多くなり、耐えているのも馬鹿らしくなり机に突っ伏した。うつらうつらと沈んでいく感覚に浸っていると乱暴な音がした。床を伝って机の足にまで響いたその音に頭を転がして確認すると並んだ机の先に息を切らしたような真惟が立っていた。真惟は自分の席ではなく後ろを怖い顔で睨みつけていた。そしてわたしを見つけて驚き、まっすぐ向かってきた。  嫌な予感がした。 「沢井みちと一緒にいたって本当?」  わたしは二割増しで重たい頭を起こして真惟を見つめた。  どう伝えるべきか。わたしは今まで沢井さんと会っていたことをいわなかった。聞かれなかったからといえばそれで終わるのだが、どこか冷たすぎるような気がした。昨日の今日だからこそ伝え方には気をつけなければならない。 「ねぇどうなの?」  不安と苛立ちが目に見えた。答えを催促されてもわたしの考えはまとまらない。ふと沢井さんの母親にいわれたことが頭の中で再生された。 『責任ももてない人の言葉なんて聞くだけ無駄だわ。その場しのぎのために取り繕った言葉じゃなくてあなたの言葉で話しなさい』  わたしの言葉。べつに感化されたわけでも絆されたわけでもない。それでも話すことは大切だ。わたしはわたしの思ったことをしたい。 「そうだよ」  だから伝えた。間違えようのないように、首を縦に振って肯定をした。 「いつからなの?」 「夏休み明けから」 「何でいってくれなかったの?」  何で。いってどうするのかという思いが強かった。何かが変わっただろうか。いえば昨日のことは起こり得なかっただろうか。わからないし、考えることが億劫になってきた。一番強く思っていたのは噂されないため。それはきっと。 「……沢井さんのため」  それが一番の選択だと判断した。 「なんで。オレが知ったからって沢井に何かあるわけ?」 「これは沢井さんの問題だから他人がとやかくいえないしいっていいわけがないの」 「それでも、友達なら一言いってほしかった」  まだ続きそうな会話に眠気と戦う頭は限界だった。相手の言葉を受けて考えて発言してまた返ってきての繰り返し。誰かと話すことってこんなに辛いものだっけ。真惟ってこんなにめんどくさかったっけ。 「違う……」  沢井さんのためなんていったけど、違う。わたしのためだった。こういう風に聞かれることをめんどくさいと思ったのだ。それに真惟や珠恵から沢井さんのことを聞いて、わたしが沢井さんという人を知りたくなかった。わたしが見て、聞いて沢井さんを知りたかったんだ。それは真惟も珠恵も関係のないことだ。 「これはわたしのことだから」  問題という言葉を使いそうになった。真惟の方の力が抜けたのがわかった。 「おーい、柿原いるか?」  タイミングを見計らったかのように現れた瀧口先生がわたしを呼んだ。 「はい」 「ちょっと来てくれ」  手招きつきだ。何だろうと思い席を立った。真惟はそのまま立ち尽くしていた。わたしは声をかけずに先生の元に向かった。  瀧口先生とわたしは応接室にいた。主に保護者と話す時に使われる部屋だ。 「こんなこと柿原に頼むのは間違っているのかもしれんが」  そう前置きをしてゆっくりと息を吸っていた。緊張した面持ちだ。ただでさえ呼び出されたということだけで緊張してしまうのに何をいうつもりだろうか。前置きが前置きなだけに身構えた。眠気と緊張で吐きそうだった。 「沢井のことだ」  みんな沢井さんが好きだなと思った。こうも学校内で沢井さんの名前を聞くとそうなんじゃないかと思ってしまう。 「沢井はな、根はいい子なんだ。昔は優秀で人望も厚くてみんなに好かれていたそうだ。しかし、柿原も知っての通り今は学校に来ていない。そこで頼みがある。沢井を学校に連れてきてくれないか? きっと沢井は寂しいんだと思うんだ。柿原と沢井の噂は先生も知ってる。きっと柿原なら沢井を助けてあげられると先生は思うんだ。だから、」  バンっと机を叩いた。もう聞いてられなかった。  沢井さんはきっと寂しい?  わたしなら沢井さんを助けてあげられる?  無責任だ。わたしたちの何を知っているのか。勝手に決めつけて、勝手に押し付けて。  沢井さんの母親が頭にちらついてうっとおしいが、いわれた言葉通りだった。同時にわたしも先生と同じことをいっていたと思うと無性に腹が立ってきた。 「柿原、」 「失礼します」  先生の言葉を打ち切った。八つ当たりするかのようにドアを閉めた。そのまま足元だけを見つめ歩き出す。  寂しいかどうかは沢井さんが決める。  助けられたいかどうかも沢井さんが決める。  助けられるかどうかはわたしが決める。  助けたいかどうかもわたしが決める。  他人に指図されることじゃない。  他人が決めていいことじゃない。  みんなわたしを理解してくれない。なのに勝手に決めつけてくる。わたしはそんな人間じゃない。勝手なこというな。勝手にわたしを決めるな。勝手に、 「ゆか」  呼ばれた気がした。顔を上げるといつの間にか教室に戻ってきていた。教壇の前で止まる。 「ゆか」  呼んだのは真惟だった。心配そうに見つめてくる真惟との横に珠恵もいた。  教室は静かだった。みんなが私を見ていた。 「ゆかり」  動揺していたわたしを今度は珠恵が呼んだ。なんなんだこの状況は。まるで。 「柿原さんってそんな人だったんだ」  誰かがつぶやいた。真惟と珠恵以外に交友が薄いわたしは誰の声かも判別できない。鬼の形相で真惟が声のした方を見た。視線を追っても皆顔を伏せていてわからない。何のことをいっているんだ。 「柿原さんってそういう人だったの?」  今度はわかった。中津川さんだった。本に視線を向けたままだ。私の方すら見ていない。みんなが私と中津川さんの間を避けるように避けていく。 「おい、」  ぐっと勢いよく飛び出ようとした真惟の腕を珠恵が掴んだ。表情は真剣そのもので見たことのない怖い顔だ。張っていた真惟の身体が膨らんだように丸くなった。 「なんのこと?」 「噂になってるよ。柿原さん、中学時代に他人の絵、破ったんだって?」  目が膨張した。薄らと倒れたイーゼルと紙の散らばった光景が目に浮かんだ。 「それでその絵を、同級生に食べさせようとして口に突っ込んだとか」  ざわっと鳥肌がたった。地元を離れたわけではないからいつかはバレるだろうなと覚悟はしていた。 「この前泣かせた他校の人がそうなんでしょ? また追い詰めるとかひどいね」  みんながわたしを見つめていた。何かをいわれるよりも、そうなんだと聞きもしないで決めつけたような視線が嫌いだ。たいして知りもしないで何様のつもりだよ。 「ゆかり、本当なの?」  カチンときた。珠恵まで疑っているのか。わたしたちの今までの時間が急に空虚なものに思えてきた。他人と同じ。いや、他人以下。 「どうだろうね」  やっぱりみんなわたしを理解していない。顔を見ればわかった。あのときのみんなと同じ顔。信じられないって顔。  そりゃ全てを理解しろとはいわない。それでも信じてほしかった。そんなことしないって。わがままなのはわかってる。でもきっと同じようなことが起きたらどうせみんなわたしを見捨てるんだから。遅かれ早かれの話だ。  大丈夫。もうあの頃のわたしじゃない。それに知っている。わたしが問題と思っていることは大抵問題ですらないのだ。中学と同じように授業という拘束的時間が外部との関わりを制限してくれる。  卒業したら遠くに行こう。もっと遠くの場所に。二駅なんて近すぎる場所じゃなくて、飛行機や新幹線でしか行けないほど遠くに。そうしよう。 「それに沢井ってあれでしょ」  中津川さんはわたしが反応しないことが面白くないのか、気を引くような軽い口調で語り始めた。 「一学期に変なこといい散らしてたやつ。なんだっけ、多重人格とか解離性障害とか。意味不明だよね、不登校にもなって自業自得っていうか。かわいそうだよね」 「お前が沢井さんを語るな!」  教室が再び静かになる。わたしは歩き出した。自分の机に置いてある鞄を掴み、教室から出ていった。誰かが何かをいっている気がした。それを無視して歩き続ける。早く、早く。
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