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「 ②香月と誠の関係 」
あれから数週間が経った。何でかわからないが1日に一度は真龍の事が頭を過る。変な感覚だったが何故か不快感はなかった。それどころか安心感があり、人生で今が一番ゆったりとした気分でいられている気がした。
「いらっしゃいませ」
店のドアが開き、顔を上げると真龍がいた。
「いらっしゃいませ。お久しぶりです」
「ああ。この間の花が良くてな。またお願いに来た」
「そうでしたか。良かったです。あちらでお待ちしますか?今日は何人か女性のお客さんがいますけど」
「そうだな。俺は誰がいても構わないが、あんたに迷惑が掛からないか?」
「迷惑だなんて。この間も言いましたけど、花たちは人を選びませんから」
「それならいい。ここのコーヒーも飲みたいんだ」
「はい。では、こちらへどうぞ」
普段なら初めての客以外は席まで案内しない。しかし、女性客の中に行くのは行きづらいだろうと思い、香月は真龍を案内した。
「ここでいいのか?一番眺めのいい場所なんだろ?女の人たちが座った方がいいんじゃないのか?」
「そうですね。でも真龍さん、きっといつも仕事大変だと思うので。真龍さんのような仕事って、どうしても呼吸が浅いんじゃないですか?だから。――ここでゆっくりしていて下さい」
「悪いな。じゃあ、遠慮なくここでゆっくりさせてもらう」
「はい。今、コーヒーをお持ちしますね」
この間、名刺はもらっていたが、次にいつ来るかなんてわからない。それどころか、もう来ないかもしれない真龍の事を、香月はずっと考えていた。そして、この席は真龍専用にしてもいいかと考えるくらいまでになっていた。
「お待たせしました。コーヒーと、今日はラベンダーのケーキです。お口に合えばいいのですが」
ラベンダーの香りがするスポンジケーキに、横にはホイップがあった。それをコーヒーと共に真龍の前に置く。
「悪いな」
そう言って真龍は一口、コーヒーを飲んでからラベンダーのケーキを食べる。
「これは…」
ラベンダーと名が付いているのでわからなかったが、口に入れた途端、真龍の表情が柔らかくなる。
「あんた、このケーキ何処で覚えた?」
「これですか?これは僕がいた施設。えっと、僕には親がいないんです。それで施設で育ったんですけど、そこの先生がお菓子作りが好きで、その先生から教えてもらったんです。お口に合いませんでしたか?」
真龍の反応を見て、香月は心配になった。
「そうか。あんた名前は?」
「名前ですか?田所 香月です。先日は真龍さんの名刺だけ頂いちゃいましたもんね。自己紹介が遅れてすみません」
「いや、それはいい。――あんた、花園センターの香ちゃんだな?」
真龍の口から施設名が出た瞬間、香月の脳内がグルグルと回り出した。同じように、目の前に映るものも回る。そのうちに、子どもが2人いる映像が見えた。
「誠くん。僕も一緒に―――」
その場面を見た香月は、その場に倒れた。
「香ちゃん、香!」
真龍は、自分の前で倒れた香月を抱き起し、顔を見る。
「誠くん。やっと会えた。迎えに来てくれてありがとう。僕、ずっと待ってたよ。誠くんの好きなラベンダー守ったし、ケーキも先生に教えてもらって覚えたんだ。良かった~」
まるで子どもが話すかのような口ぶりで香月は真龍に言うと、意識を失くした。
香月はまた、夢を見た。
子どもの時の自分。センターにある庭の端っこで自分より少し大きい子と話をしている。
『僕、ここを卒業するんだって。香ちゃんも行く?』
『僕は行けないと思うけど。でも、誠くんの新しいお父さんとお母さんがいいよって言ってくれたら一緒に行く~』
『じゃあ、聞いてみるね。いいよって言ってくれるといいなあ』
場面が変わる。
『香ちゃん、ごめんね。僕、行くね。会いに来るから。香ちゃんも来てね』
『誠くん、行っちゃヤダ。僕も行く。僕、誠くんと一緒に―――』
そこで現実に戻された。
「ん…頭痛い…ん?」
酷い頭痛に襲われながら目を開いた。手で自分の周りを触ると、普段は布団しか触れない手に、人の温もりのようなものに触れた。触れた側を見ると、そこには真龍が眠っていた。
〈真龍さん?〉
痛みのある頭と重い身体を起こし、真龍を見る。何かが起きた自分をここへ運び、看病をしてくれたのがわかる。そっと布団から出て、真龍に布団を掛けた。
喉がカラカラになっているので台所へ行き、水を飲む。水を飲むと幾分か頭痛が引いたように感じたが、鈍痛とガンガンとの間を行き来するような痛みになり吐き気を覚えた。
急いで台所のシンクに移動する。水を出しながら、今飲んだ水分を吐き出した。
「んっ…」
その声を聞いて目を覚ました真龍が傍まで来た。
「香、大丈夫か?どこか苦しいのか?」
自分を気遣う真龍に、何故か親しみのある呼び名が香月から自然と言葉び出た。
「誠くん、ごめんね。何だか頭が痛くて。しかも汚いもの見せちゃってごめん」
「そんな事ねえ。謝るな。まだ横になってろ。無理するな」
「うん」
香月は真龍に抱えられながら布団に横になった。
「大丈夫か。お前は俺の事、思い出したのか?」
「何となく。でもごめん。さっき思い出したんだ。少しだけど。僕、子どもの頃の記憶が一部ないって話をしたでしょ。多分、それは真龍さんの事だったんだ」
夢で見たのは一部だったが、真龍が幼いあの日に別れてしまった、あの男の子だという事はわかった。
「そうか。一部でも思い出してくれたのは嬉しいもんだ。真龍ではなく、さっきみたいに名前で呼んでくれてもいいんだぞ」
「う~ん。それは…。だって、もうお互い大人だし、真龍さんには真龍さんの下の人の事とかあるし。ねえ、真龍さんは僕の事どうしてわかったの?」
香月は自分が倒れた前後の記憶が曖昧で、さっき出したケーキすらも、出した気がするというような感じだった。
「お前が出してくれたケーキを食べた時だ。あのケーキ、センターの先生が作ったやつだろ?俺、あのケーキ好きだったんだよ。そのケーキの味で、もしやと思った。ごめんな。俺が置いてったばかりに」
「謝らないで。幼かったあの日、僕は君がいなくなってショックだったんだろうな。でも、今はわかるよ。新しい生活になれば色々大変なんだろうなって。ましてや、幼い子どもだと自分でどうにかするって言っても無理だし。大人の言う事を聞いてなきゃいけないし。だから気にしないで」
まだ治まらない頭痛で、時々しかめっ面をしながら、それでも笑顔を向けながら香月は言った。
「そう言ってくれてありがとうな。あの時の話は今度ゆっくりしよう。まずは休め。俺はここにいるから、もう少し眠るんだ」
「うん」
幼い日、香月が眠れない時に真龍がよくやっていた頭を撫でる事を今してくれている。身体が覚えているのだろう。こんな年になっているというのに、その温もりが眠りへと誘った。
★ ★ ★
〈いい匂いがする。お腹空いたなあ〉
寝ている香月の脳内に、美味しそうな匂いが反応した。目を開けると、台所で知らない男が料理をしていた。
「香、起きたか。具合はどうだ?」
「大丈夫っぽい。あの人は誰なの?」
自分の家の台所で美味しそうな匂いを漂わせている男を指さし、真龍に聞く。
「あれは、この間俺と一緒にいた宮坂っていう奴だ。俺の側近で飯を作ってる」
「ああ、あの綺麗な男の人」
「まあ、綺麗な顔立ちではあるな。何だ?香は、宮坂みたいな顔立ちの奴に憧れるのか?」
揶揄うように真龍は声のトーンを上げて言う。
「そういうわけじゃ…。ただ、僕の周りではあまりいないタイプの人だなあと思っただけだよ」
真龍と話していると、明らかに口調がいつもとは変わる自分がいる。それがとても楽にいられる。
「アハハハ。そんなムキになるな。冗談だ。身体は起こせそうか?」
「うん。あっ、大丈夫。自分で起きるよ」
香月が身体を起こそうとすると、真龍が背中に手を添え、支えてくれようとした。しかし、宮坂の前で真龍の手を煩わせるのはいけないような気がした。
「そうか?」
「うん」
香月が断ったからなのか、真龍は残念そうな表情をした。
〈ごめんね、誠くん…〉
心の中で謝りながら香月は身体を起こした。
「ご気分は如何ですか?一応、柔らかいものを作ってみましたが食べられそうですか?」
香月が身体を起こすと、台所から宮坂が来て、声を掛けた。
「すみません。宮坂さんにまで色々と…。それに、真龍さんを…」
「いいえ、お気になさらないで下さい。若のご友人とあらば大切な方ですから」
「話はそんくらいにして、香、まずはちゃんと食え。宮坂、支度しろ」
「はい」
香月と宮坂が2人で話している間に真龍が入り、まるで香月と宮坂を割るようにした。宮坂には何となく真龍の考えがわかった気がしたが、香月には不思議に思えた。
「真龍さん、どうしたの?」
「何がだ」
「う~ん…。何でもない。僕の勘違い。こう見えて僕、お腹空いてるんだ。頂きます」
香月は途中まで何かを言い掛けてみたが、自分が何を言いたいのかわからなかったので言うのを止めた。
それから3人で食事をし、少し経ってから真龍たちは帰って行った。今までずっと1人でいたのに、たった半日程、真龍と宮坂といただけで、いつもよりも部屋が静かに思えた。
―――翌日、頭痛もなく身体も楽になったので店を開けた。今日は、昨日急遽店を閉めてしまったので、お詫びの為にカフェスペースでの飲みものを(コーヒー、紅茶、ハーブティー)無料にする貼り紙をした。まずは店内に貼る。カフェスペースにも貼る。カフェスペースのどの部分に貼ろうかと見渡し時、毎回真龍に勧める席を見た。
【予約席】
小さいカードを置いてみた。しかし、そのままでは寂しいのでコーヒーカップに真龍の好きなコーヒー豆を入れ、そこにカードを挟むピンを挿してからカードを挟む。テーブルの真ん中にはラベンダーとアイビー(ヘデラ)の小さいサイズの寄せ植えを作って置いた。きっと、他の客に何か聞かれるかもしれないが、ここは真龍の為の席にしておきたかった。
店を開けてから1時間程すると、近所の女性客が来始めた。いつものカウンターのような席に数人座り、世間話をしている。
「田所さん、もういいの?昨日は驚いちゃったわよ。急に倒れちゃうんだもの」
「すみません。普段から気をつけていたんですけどね。大した事はなかったので、もう大丈夫ですから」
「そう?それより、昨日の男性ってどういう知り合い?慌てて田所さんを抱き上げて2階に連れて行ったんだもの。あんな知り合いいたのね~」
香月が倒れた時にいた人が、その時の状況を話す。女性だからか、香月と真龍の間柄を興味深々な感じで話してきた。香月は、興味本位で話しているとわかっていても、その時の真龍の状況を聞きたかった。
「あの人は僕の大切な人です。友達で兄で家族。もう随分と会ってはいなかったんですけど偶然再会して」
「へえ。だからなのかしら、凄く心配してたわよ。顔も青くなって、普段も倒れたりするのかとか、一緒に暮らしてたり面倒を見てくれている人が近くにいるのかとか、みんなに聞いて。あとは~、知り合いの誰かに電話したり。とにかく心配してたわよ。倒れた田所さんより、あの人の方が大丈夫かしらって思ったくらい」
心配してくれていたのはわかるが、そんなにもだったのかと香月は思った。ドラマや映画でしか見た事がないが、真龍のような仕事ではこんな事は日常茶飯事なのだと思っていたので、自分の事も心配しなくても目が覚めれば大丈夫くらいでいたのだろうと軽く思っていたのだ。実際は、そうではなかったのだと知って申し訳なく思った。
「そうでしたか。教えて下さってありがとうございます。みなさんのお話しのお邪魔をしてすみません。ごゆっくりどうぞ」
香月はその場を離れ、花屋の方へと行く。
〈そうかあ。そんなに心配させちゃったんだなあ。今度会った時にちゃんとお礼言わないとな〉
そう思いながら花の手入れをしていた。
―――夕方近くになり、西日に当たりそうなものを店内に入れていると真龍が来た。
「真龍さん。昨日はありがとうございました」
「店開けてて大丈夫なのか?」
「うん。病気ではないから。忙しいのに様子見に来てくれたの?」
「まあな。店、入っていいか?」
「何で聞くの?いいに決まってる」
「まあ、一応な」
「前にも言ったけど、この子たちは人を選ばない。だから気にせず入って」
「ああ」
「では、こちらへどうぞ」
真龍の少しオロオロした感じの姿を見て、香月はクスッと笑いながら席へ案内する。その後ろから「笑うな」と耳元で真龍が言った。
「アッ…」
何気ない真龍の行動に、香月の口から一瞬甘い声が出た。香月は慌てて口を押える。足を止め、そのまま下を向く。数秒、沈黙が続いていたが顔を上げた。自分がどんな顔をしているのかわからないが、熱がこもっているのはわかる。その香月の顔を見た真龍が驚いた顔をしていた。
「香?」
「あっ、あ、ごめんなさい。何でもないから。アハハハ~」
さすがにこれはちょっとと、香月はアタフタした。今までにした事のない反応を何でもないこんな状況で、しかも真龍相手に、笑って誤魔化すしか方法が思い付かなかった。
「アハハハ~。さっ、ご案内しますって、あっ!」
アタフタしながら笑って誤魔化し、席への案内の続きをしようとすると、足元が安定していなかったようで何もない所で転びそうになった。
「香!」
転びそうになった香月に真龍の手が伸びる。まるで恋愛ドラマのように抱えられ、2人で見つめ合うようになった。すぐに視線を外して起き上がればいいのに、真龍の視線から目が動けなかった。
「誠くん…」
真龍を名前で呼び、じっとしていると、真龍の顔が近付いて来る。誰に教わったわけでもないのに香月は自然と目を閉じた。
真龍と唇が重なる。ほとんど経験のない香月は、真龍の舌の動きに付いて行けない。それがわかったのか、真龍は香月に合わせながら、でも自分の動きへ誘うようにする。
「ンッ…んん…ハァ…」
真龍の唇から解放された香月は、潤んだ目で見る事しかできなかった。
「ごめん、香…」
真龍が小さく細い声で言う。香月は首を横に振った。
「ううん、僕こそ。僕のせいで変な事させちゃってごめんね」
「変な事じゃない。俺はあの時から―――」
「ダメだよ。僕なんかにそんな事。僕はこう見えて男だよ?あき…、真龍さんは真龍組の偉い人なんだからね?今のこれは事故だから。それに僕と真龍さんは家族と同じだしね」
突然の出来事でも嫌とは感じなかった。男性とは初めての事なのに『このまま…』という感情が出た。しかし、その感情を隠すように敢えて『家族』という言葉を出した。
「あ、ああ。でもな香―――」
真龍が言葉の続きを言おうとした時、香月は思わず両手で真龍の口を塞いだ。
「ダメ、誠くん。こういうのは好きな女性とするもんだよ。僕は違うでしょ?とりあえず女性ではない」
潤んだ目のまま言っている自分に説得力があるのかわからない。しかし、今の香月はそう言うしかなかった。
「まあ、そうだな。悪かった。ついな。――ケガはないか?足を挫いたりとか捻ったりとかはないか?」
「うん、大丈夫。さっ、席に案内するよ。コーヒーだけでも飲んでって」
「ああ、そうさせてもらう。外に宮坂もいるから呼んでも構わないか?」
「もちろん。一緒に来てくれれば良かったのに」
今のこの状況には宮坂がいてくれた方が良かった。真龍を席に案内したあと裏へ行き、真龍のコーヒーと宮坂のラベンダーティーを支度した。
支度ができたので2人に持って行く。今日はオレンジが入ったチョコを出す。
「お待たせしました。宮坂さん、昨日はすみませんでした。食事まで作ってもらってしまって」
「いいえ。お元気になられたみたいで良かったです。でも、昨日の今日でお店を開けて大丈夫ですか?もう少し休まれた方が…」
「ありがとうございます。一応、病気ではないですし、それにお花の注文もありますから」
「そうですか…」
「はい。そうだ、今日のお菓子はオレンジが入ったチョコです。お客さんでケーキ屋さんがいるんですけど、そこのものなんです。美味しいので時々出しています」
香月の話を聞きながら真龍が1つチョコを口に入れる。
「へえ。チョコなのに本当にオレンジが入ってる。香は何でも知ってるんだなあ。俺は食うだけだから、今まであまり考えないで食ってたな」
「アハハハ、真龍さんらしい。昔から美味しければいいって感じだったもんね。でも、それが一番だよ。何がどうしたって考えるより、美味しいものは美味しいでいいと思う」
「そうか?香がそう言うなら、それでいいな」
香月の前だと鋭さを出さずにいる真龍を、宮坂はラベンダーティーを飲みながら見ていた。
―――真龍と宮坂はしばらくゆっくりしていたが、帰ると席を立った。あまりに美味しそうにチョコを食べていた真龍だったので、香月は帰りにチョコを渡した。
「真龍さん、これ持ってって。さっきのチョコ、それとコーヒー。これも家で飲んで下さい」
「いいのか?他の客にも出すんだろ?」
「他にも出せるものがあるから平気。だから持ってって。そうだ、こっちは宮坂さんに。ラベンダーティーです」
宮坂にも渡す。
「いいんですか?」
「はい。2人とも忙しい時に是非これで、ゆったり時間を少しでも作って下さい」
「ありがとうございます。若、これで少しは組にいても楽しみが増えますね」
「そうだな。組は常にうるせー連中がいるからな。少しは気が休まる」
「そう。それなら良かった。それとね」
「まだあるのか?」
持たせるものを次々に出す香月に、真龍は少し心配になる。
「これ。今日は飲みものを無料にしちゃったから、花があまり売れなかったんだよ。良かったら持ってって。それともヤクザ屋さんちは松とか菊とかだけじゃないとダメなのかな?」
「(笑)。松と菊って。まあ、確かにそっちの方が目にするのは多いけど映画じゃあるまんし、それじゃないとダメって事はねえ」
「ん~、笑わないでよ~。本物なんて初めてなんだから~」
「悪い、悪い(笑)。もらってくよ。でもなあ、こんなにたくさん。いくらかでも請求してくれ」
「要らない。だって売れ残りだから。お金なんてもらえないよ」
「でもなあ」
「いいの。さあ、もう車に乗って。宮坂さんが困った顔してるよ」
香月から渡された花たちを車に載せ、真龍と香月の会話している姿を、宮坂は静かに立って見ている。
「宮坂、困ってるのか?」
「いえ、特には」
香月に注意され、わざと真龍は宮坂に聞く。
「困ってないらしいぞ」
「もう。どうして意地悪言うの?困ってたとしても『困ってます』って言えないでしょ?」
明らかにふざけている真龍に、香月は怒り気味に答える。
「宮坂さん。困ってるって言っていいと思いま――んん…」
真龍に答えたあと、宮坂をフォローする香月の唇に真龍の唇が重なった。それを見た宮坂は本当に驚いたからか、「こ、困ります…」と棒読みのように感情と言葉がちぐはぐな感じで言った。
「真龍さん…。ぼ、僕も困りま…す…」
宮坂の言葉が耳に入り、香月はとっさに真龍から離れ、宮坂と同じ言葉を言った。
「お前が可愛い顔するのが悪い」
「何それ…。さっきも言ったけど、こういうのは好きな女性とするもんでしょ?僕は男だから…」
さっき店内で言った事をもう一度言った。
「わかってる。でも『好きな』は合ってるとしても、好きな相手が『女性』でなくてはいけないっていう事はないだろ?今のは、いや、さっきのも軽いものじゃない。再開して何回かしか会っていないが本気だと思ってくれて構わない」
突然の真龍の言葉に、香月は固まっているしかなかった。
「宮坂、行くぞ」
「は、はい。では、田所さん、お花とか色々ありがとうございます」
宮坂も驚きが治まらないのだろう。真龍に言われ、とりあえず香月にお礼だけを言って、真龍を車に乗せ走らせた。
何が起きたのか、香月の頭の中が途端にいっぱいになる。しばらく真龍の乗った車を見ていたが、ボッーとしながら店内の方を向く。無意識に【配達中】の看板を出し、店のカギを掛け、カフェスペースの真龍専用にした席に座って、庭の中央にあるラベンダーを見た。
〈本気だと思ってくれて構わない…か…〉
真龍が言った言葉を思い返していた。真龍にされて嫌な感じはしない。寧ろ、もっとと思ってしまった。これが真龍と同じ意味なのかを考えると、今までに同じような経験がないのでわからなかった。
―――夜になってもずっと考えていた。いつもの香月は言葉にするには変だが、淑やかな方なので感情だけではあまり動かない。しかし、この時の香月は胸がモヤモヤしていてじっと考えていられなかった。真龍からもらっていた名刺にある住所まで車で行った。
大きな日本家屋の建物。入り口の門の脇には【真龍組】と黒い大きな文字で書かれていた。
〈ここだ〉
車から降り、入り口にあるインターホンを押す。
「はい」
「すみません。田所香月と申しますが、真龍誠さんに会いたいのですが」
最初に聞こえた『はい』が低く野太い声だったので、香月は恐る恐る自分の名を言い、真龍に会いたい事を告げた。
告げたあと返事を待っていたが、インターホンからは返事がなく、真龍と最初に会った時に傍にいたような不良のような若い子が出て来た。
「あんた誰?」
「僕は田所香月と言います。真龍誠さんいらっしゃいますか?会いたいのですが」
「いなくはないが、あんた何者?」
色んな人が来るのだろう。警戒していて、すぐには会わせてもらえない感じだった。
「えっと。家族?う~ん、兄弟?違うなあ。何て言っていいだろうか。幼馴染み?ですかね…」
考えていなかった。真龍との間柄はどういっていいのか。何も考えずに行動すると、こんな事態になってしまうのだと思い知らされた。
「テメエ、ふざけてんのか?」
「いえ、ふざけては…」
急に怒り出した相手に言い返そうとすると、胸ぐらを掴まれた。
「や、やめて下さい。真龍さんには会わせてもらえないんですか?」
「テメエみたいなもんが簡単に会えるような人じゃねえんだよ。とっとと帰れ」
胸ぐらを掴んだ男は、そう言ってから香月を向こう側へ突き飛ばした。
「痛っ。何するんですか。僕はただ会いに来ただけなのに」
「理由はわからねえが、ここはテメエが来るような所じゃねえんだよ。帰れ」
折角来たのに会わせてももらえない。今の真龍はそのような立場なのかと改めて自分との違いを理解した。
「じゃあ、僕が来た事だけ伝えて下さい。あと連絡が欲しいと。例の件の話をゆっくりしたいと。お願いします」
そう男に言って、香月は仕方なく帰る事にした。
車を走らせると、後ろから真龍が走って来た。
「香、香待て。香~」
窓を開けて走っていたので真龍の声が聞こえた。急いで車を停め、外へ出る。
「香、悪い。若いのが――」
「真龍さん…。ごめん、急に来て。でも僕、真龍… …誠くんとちゃんと話をしたくて」
香月が来ている事を聞いた真龍が慌てて屋敷を飛び出し走って行くので、組の者たち数名も一緒に走った。香月に追い付いた真龍との話を聞いていて、香月が『誠くん』と呼ぶので唖然としていた。
「そうか。ここによく来れたな。怖かったろ」
「でもない。あんまり考えないで来ちゃった。それに華道家のお宅は日本家屋がほとんどだから。建物的には慣れてる」
「そうか。それなら良かった。このままここで話すのってのはな。家へ来い」
「うん。ありがとう。お邪魔するね。あっ、真龍さん乗る?」
あんな追い返し方をされたのに、真龍を前にすると何も怖くない。香月は子どもの時のような受け答え方をした。それに、さっきのように名前で呼ぼうかとも思ったが、真龍の周りには組の人たちがいる。『真龍さん』と呼び方を戻した。
「誠でいいんだが…」
「でも、やっぱりさ」
そう話しをしながら真龍を乗せ、屋敷に戻った。屋敷前まで戻ると、門の前で宮坂が立っている。
「田所さん、申し訳ありません。うちの者が」
香月を前にして、宮坂までも頭を下げる。
「いえ。何も考えないで来た僕が悪いので。すみません。大きな事になってしまって」
宮坂とも話をしてから、あとに続いて屋敷内に入った。横には真龍がいる。
「若、どうしますか?自分のお部屋で?」
「そうだな。下はうるせえからそうする」
「はい。では飲みものをあとからお持ちします」
「ああ」
たくさんの人に見られながら香月は真龍に案内され、部屋へ行く。
「ここだ、入ってくれ」
「広いね。さすが真龍組の若さんだ」
「茶化すなよ」
「そんな事してない。本当に凄いよ」
キョロキョロと真龍の部屋を香月は見た。
「凄くなんかない、広いだけで。この年だからいられるけどな。ここに来たばかりの頃は広すぎて落ち着かなかったんだ。落ち着かないどころか怖くて、いつもクローゼットの中にいた。そうしちゃ、組のもんに引きずり出されてな。自分は何でこんな家に連れて来られたのかと、そればかり考えていた。香が一緒ならこんな思いしなかっただろうと、お前と一緒なら、この広い部屋も楽しかっただろうと、そんな事ばかり考えていたんだ」
ソファーに座り、真龍は横にいる香月に話し始めた。
「そうだったんだ。… …僕は真龍さんと別れる前の記憶がなくなって、ずっとモヤモヤしてた。思い出そうとすると頭痛が酷くて。じゃあ思い出すのを止めようかと思うと、身体の何処かで思い出せって言われたみたいになって。中学までは酷くて、あまり学校にも行けなかったんだ。特に体育や図工、給食みたいな、みんなで何かする時間になるとダメだった。高校に入ってからはほとんどなかったけど、それでもモヤモヤ感はなくならなかったんだ」
「香が苦しんでるのに知らなくて悪かった」
「何で真龍さんが謝るの?仕方ない事でしょ?あの日からお互い違う人生を歩み始めただけ。真龍さんが謝る事なんて何もない。それに、今こうして会えたんだし。2人ともちゃんと大人になれたんだから良かったよ」
何を話しても申し訳なさそうにする真龍の横で、涙が出そうになるのを堪えながら香月は笑顔で答えた。
―――「失礼します」
2人の沈黙した中に、宮坂が飲みものを運んで来た。
「こんな時間に急に来ちゃってすみません」
「いいえ。このような世界ですから時間は気にしないで下さい」
「すみません」
「それよりも、良かったですね若。田所さんが来て下さって。子どもの頃からの夢だったのでしょ?」
宮坂が言うと、香月は嬉しそうな顔で真龍を見た。香月に見られた真龍は、「宮坂、余計な事を言うな」と言うように香月から顔を逸らして宮坂にキッと鋭い視線を向けた。
クスッと笑いながら宮坂が部屋を出て行った。しかし、また沈黙してしまう。香月は思い切って口を開いた。
「あのさ、あの…、あのさ。凄く聞きづらいんだけど、真龍さんは僕の事どう思ってるの?僕は正直、どう思っていいのかわかんない。だって、ずっと記憶がなかったから。でも、じゃあ、さっきされた事が嫌かって言うと、そうでもなくて。もちろん、男の人をそういう対象で見た事もないし。でも、真龍さんとは嫌じゃなかった… …んだよね…うん…」
今はこれを伝えに来た。そう自分に言い聞かせ、香月は言葉が詰まりながらも話した。
香月の話を聞いていた真龍も口を開く。
「さっきは悪かった。急にあんな事」
一言言って、真龍は言葉を止めた。間を置いてから再び口を開く。
「俺がお前に想う事のは、ただの幼馴染みとしてじゃない。お前が俺を見て笑う顔も、少し怒った顔も可愛いと思っちまう。俺はこの世界のもんだ。だから男も女にも経験がある。でも、そいつらとは違う。香とそいつらとは全く違うんだよ」
真龍が話し終えると、香月は息を吐く。そして下を向いて軽く笑ってから、また話し出した。
「アハハハ。何か変だね。20年くらい経つのに自分の気持ちもわからないの。ずっと会わなかったのに、急に恋愛感情が生まれちゃうの。――でも、こんな事もあるんだね。あの頃の僕たちが知ったらどう思うかな(笑)。笑って納得してくれるかな」
「――なあ、香」
「ん?」
「そう思っていいのか?俺はこんな世界の人間だし、周りに色々言われるのが仕事みたいなもんだからいいけど、お前は花屋で客商売してるだろ。カタギだしな。それでも俺とそういう関係になってもいいのか?」
「う~ん。真龍さんが言うカタギって普通の人って事でしょ?僕は生まれてすぐから普通じゃないし。気にしない。ただね、ヤクザ屋さんってドラマとか映画でしかわからないから、僕みたいなのが真龍さんの近くにいて迷惑にならないかなって。さっきも下にいる人に怒られちゃったし。それが心配」
「半分は映画とかと同じだな。でも今は時代が違うから、毎日あんな熱くなる事なんてない。時々はあるがな。極道もサラリーマンみたいなもんだ。それに、俺の傍にいる奴は俺が決める。誰にも文句は言わせねえ。それだけは言わせねえよ」
話の途中から真龍は香月に身体を向けてジッと見ながら言ってきた。その視線から香月は目が離せない。真龍が最後まで言うと、そっと唇を重ねてきた。
「んん…真龍さん、格好いい。イケメンってやつになったね」
「香だって、子どもの頃の優しい感じのまま大人になった。俺は、その頃のお前の温かい雰囲気が好きだった」
「そうなの?」
「ああ。だから、もう黙れ」
優しい真龍の目が香月を見る。このあと、どうしていいのか迷ったが、香月は目を閉じた。
最初は軽いキスだったものが、段々と深くなっていく。その先へも進み、よくわからない香月は、真龍に全てを委ねた。そして、最後は気を失うようにして香月は眠った。
★ ★ ★
香月が目を開けると、目の前に真龍がいる。
〈そうだった。昨日は真龍さんと…。恥ずかしいけど、ぐっすり眠れたなあ。この間もそうだったけど、真龍さんがいると眠れる。これが眠るって事なんだな〉
記憶を失ってから『寝た』という事がわからないくらい香月の眠りは浅かった。時々、薬に頼る事もあったが、それが『眠る』という事かどうかはわからなかった。起きた時に『目が開く』という感じだけで、そのあとは頭がボッーとしていただけだった。それが真龍の傍で寝ると違う。脳や身体が休まったというのがわかる。
「起きたのか?」
「う、うん。おはよう」
真龍も目が覚めたようで、香月を抱きしめながら言葉を掛けた。
香月は真龍の声を聞くと昨日の事が思い出され、恥ずかしくて真龍の胸に顔を埋めた。
「どうした?身体辛いか?」
「ううん、そういうんじゃない。ただ…は、恥ずかしいんだよ…」
今の心情を言葉にした香月は、顔を見られないように「見ないでよ~」と言いながら真龍の腕をバシッと叩いた。
「いてッ(笑)。そんな風にされたら余計見たくなる(笑)」
真龍はクスクスと笑っていた。
ベッドの上で2人の朝を迎えた所に声がする。
―――「若、おはようございます。起きていらっしゃいますか?」
「ああ。どうかしたか。大した用じゃなければ来るな」
「申し訳ありません。ただ、朝食はどうしたらいいかと。田所さんの分も支度してよろしいですか?」
ドアの向こうで宮坂が聞く。「田所さんの…」で、香月は慌てて答えた。
「だ、大丈夫です。僕なんかの食事なんて申し訳ないですから。僕のは―――」
「そんな事、一々聞きに来るな。いるのがわかってんだから、食っても食わなくても黙って支度しろ」
「すみません」
自分の食事を聞きに来てくれた宮坂が真龍に怒られてしまい、香月はオロオロしてしまう。
「真龍さん、怒らないで。折角、聞きに来てくれたんだから。宮坂さんもすみません。僕のせいで怒られちゃって。お店もあるし、すぐに帰ります。僕の食事は要らないです」
「香、食事して行け。遠慮するな」
「でも、悪いよ。急に来て、急に泊まっちゃったし。家の人たちの都合も考えなくて、ごめんね。今日は帰る。また今度ごちそうになるよ」
このままここにいては宮坂も次の事ができないだろうと、香月は真龍の腕の中から出て、ベッドを降りようとした。しかし、いつものように両足で立とうとしたが、足の感覚がなくてストンと座り込んでしまった。
「香、大丈夫か?」
真龍の目から見ても、足に体重が乗っけられないまま座ったのがわかった。慌ててベッドから降り、香月を抱き上げ、ベッドに座らせる。
「おかしいなあ。ちゃんと立ったつもりだったんだけど…」
「香、今日の仕事、配達とかあるのか?」
「ううん、ない」
「なら、このままいろ。今日のお前は多分動けないぞ」
〈動けない?何で?〉
真龍に言われた内容がわからない香月の頭には『???』が浮かんでいた。その横で真龍がニヤリとする。
「そりゃあそうだろ。昨日、あれだけの事したんだからな。まあ、初めてのお前に激しくした俺が悪いんだが…」
ドアの向こうにはまだ宮坂がいる。
「もう。言わないでよ~」
「アハハハ。そういう事だ宮坂。香の食事も用意してくれ」
「かしこまりました」
笑いながら言う真龍の先で、宮坂の方が戸惑いながら返事をしていた。
「ごめんなさい」
「何で謝る?」
宮坂がいなくなったあと、香月が真龍に謝った。
「だって、僕のせいで何かさ…。宮坂さんも怒られちゃうし…」
「気にするな。宮坂が怒られるのは仕事の一環だ。あいつはそういう立場だから本人も気にしてない」
「そういう事言っちゃダメだよ。怒られて気にしない人なんていないんだからね」
真龍が軽く言うと、香月はそれを聞いてムスッとした顔で真龍を見た。
「お前は優しいな」
―――途中、宮坂が来たので寝起きが慌ただしかった。ベッドに座っている2人はお互いに見つめ合い、キスをして、少しの間の2人の時間を過ごした。
真龍が香月を支えながら下へ行く。朝から何人もいて食事の支度をしながら賑やかになっていた。
「「若、おはようございます」」
「ああ」
怖い系の(学生時代に学校にいた不良っぽい感じ)人たちが香月をジッと見ながら真龍に挨拶をした。真龍は一言返しただけだったが、香月は挨拶の言葉を言いながら頭を下げた。
「お、おはようございます。昨日は急に泊まってしまってすみませんでした。あっ、宮坂さん、僕も何か…」
「田所さんは若と一緒にいて下さい。こちらは大丈夫ですから。――それに、身体お辛いでしょうし」
言葉の後半は、香月の耳元で小声で言った。
「宮坂さん… …すみません」
宮坂に言われた香月は顔を赤くして、下を向きながら答えた。
それを見た真龍が心配そうに香月を見る。
「どうかしたか?」
「えっ、ううん。何でもない。ただ、何か… …恥ずかしい…」
宮坂には真龍の部屋での会話を聞かれているので、それを知られていての言葉だっただけに、恥ずかしさでいっぱいになってしまった。
「恥ずかしがる事はない。まあ、そんな顔も可愛いけどな。あまり他の奴に見せないでくれ」
真龍は香月を自分の方に寄せると、耳に軽くキスをしながらそう言った。
その様子を組の若い子たちが固まったまま立ち見している。その状況を見て、更に香月は恥ずかしかった。
食事をし、香月は後片付けを手伝う。歩き回らなくてもいいように洗いものをする。洗い始めてしばらくすると、真龍が後ろから抱きしめてきた。
「どうしたの?」
「好いた奴がこうしてるのはいいもんだなと思ってな」
「そう?でも僕は男だから見ててもつまらなくない?」
「つまらなくない。このままグチャグチャにしたい。男のロマンってやつだ」
「何それ(笑)。真龍さんはそういう癖なんだ(笑)」
「癖とかじゃなくて、それこそ男ならそう思うだろ?」
「そうかなあ。僕は…そこまで誰かと付き合った事とかないから…」
香月が言うと、後ろから抱きしめていた真龍がグイッと香月を自分の方に向けて深いキスをしてきた。
「んん…ダメだよ…みんなに見られてる…」
「見たい奴には見せときゃいい」
「ん…真龍さん…ダメ…ダメ…」
強引にしてくる真龍の胸を香月は強く押した。
「もう。どうしたの?僕、こういうの困る…。真龍さんは慣れてるのかもしれないけど僕は――違うから…。こういうのも、ここみたいな環境も…」
香月は思わず強めに言ってしまう。しかし、その表情は怒っているというよりも何故か寂しそうなものだった。
「悪い、そうだよな。2人だけならまだしも。悪かった」
「ううん。強く押してごめんね。洗いものしちゃうから真龍さんはゆっくりしてて」
香月に言われた真龍は、さっきまで座っていた所に戻る。香月は心臓がバクバクしながら洗いものの続きをした。洗いものをしながら、自分は咄嗟に真龍の過去の人たちに対して嫉妬したのだと気付いた。
―――昼近くなって香月は帰る支度をする。
「僕、帰るね。お店の花たちに水もあげなきゃだから。みなさん、ありがとうございました。今度、店にもいらして下さい」
みんなに挨拶をして外に出ようとする。
「香、待て」
「どうかした?」
「お前、早いんだよ」
「そう?だって帰るって話しだったよ?」
「そうじゃなくて。あ~、もう~。お前は変な所がドライだなあ」
「そうかなあ」
帰るとなってからの香月は、そそくさと帰り支度をし、挨拶を済ませ、玄関に向かい、靴を履く。それを見ていた真龍は慌てて香月を追ったのだ。
「まあ、いいや。送ってくから」
自分の話が通じない香月に、半ば諦めながら真龍も一緒に外へ出る。
「いいよ。お仕事あるんでしょ?それに僕、車で来たよ?」
「身体の事もあるだろ?車は若い奴に持って行かせればいい」
「ゆっくり運転してくから平気」
「いいから。今、車出させるから待ってろ」
このやり取りは何回か行われ、少し前と同じで真龍の思いが香月に届かず、見兼ねた1人が香月の耳元で「若は香月さんと離れたくないんですよ。察してあげて下さい」と言った。言われた香月は顔を赤くして「真龍さん、送って下さい」と言った。
宮坂が運転をし、後部座席には真龍と香月。走り始めた車の中で、さっき組の若い子に言われた事が香月の頭を過る。そして、台所での自分が感じた嫉妬を、想像の消しゴムで消した。そっと真龍の手の上に自分の手を置く。それに気付いた真龍は手の向きを変え、香月の手を握った。
「真龍さん。今度はうちに泊まりに来て?それとも若頭だからダメなんだろうか」
真龍組の屋敷は大きくてきれいだったが、香月には広すぎて落ち着かない時もあった。だから、今度は狭い我が家で真龍の好きなコーヒーを飲みながらゆっくりいたいと思っていた。
「ダメじゃない。なんなら今からでもいいぞ」
ワンクッション置いての返事をしてくるかと思ったが、即答でこのままいてもいいと言う。しかし、真龍が言ったあと、宮坂の微妙な表情がバックミラーに映っているのを香月は見てしまった。
「今日はお仕事なんでしょ?」
「そんなもん、宮坂でも問題ない」
「えっ。そんなのダメだよ。人に押し付けないで、ちゃんと仕事して下さい」
「そう言うな。今までちゃんとやってきたんだから、今日一日くらい問題ない」
「う~ん、困るねぇ。若さんがお仕事さぼったら下の人はもっとやらなくなっちゃうと思うよ?」
困った顔を見せながら香月は言う。
「わかった。今日は送るだけな。でも、次は泊まらせてもらう」
「うん。楽しみにしてる。その時はあのケーキも作るね」
「楽しみにしてる」
話をしているうちに香月の家に着く。
「足元に気を付けて下さい」
店の前に車を停め、香月側のドアを宮坂が開ける。
「ありがとうございます。宮坂さんには本当に良くしてもらっちゃって」
「いえ。若の大切な人ですから。それとハーブティー、ありがとうございます。今夜にでもゆっくり飲みます」
「他にも何か入ったらお持ちしますね。真龍さんもありがとう。ここで大丈夫だから。急に行って、しかも泊まっちゃってごめんね」
「何で謝る。あ~、このまま泊まりてえなあ」
香月を抱きしめると、真龍は人目も気にせず香月にキスをした。
「んん…ダメ」
「香はダメばっかだな。そんなに俺といたくないのか?」
真龍は、少し拗ねたようにしてわざと香月に言った。
「――どうしてそんな事言うのさ」
香月は真龍の胸に手を当てながら小さい声で言った。真龍は冗談で軽く言ったはずだとわかっているのに何故か涙が出た。
「お、おい。香、どうした。泣くな」
「だって、誠くんがいたくないのかとか言うから。そんな事ないのに。ずっと忘れていたけど、でも嫌で忘れたわけじゃないし、誠くんが嫌なら昨日みたいな事なんか男同士でなんてしないよ。なのに誠くんが…」
真龍の懐で一気に言った。それこそ、店前で人目を気にせずに言った。向かいの店の人がチラッと見ていたのも気付いた。お客さんかもしれない通りすがりの人の視線が自分に向けられるのもわかった。それでも香月は言葉にした。
「わかった。悪かった。軽く言った俺が悪かった。お前の気持ち、ちゃんとわかったから。それに、名前で呼んでくれてありがとう。香、こっち向け」
香月の頬が真龍の両手で包まれる。真龍より身長の低い香月が上を見るように真龍を見る。香月は自然と目を瞑り、目に溜まった涙が目の端から流れるのがわかる。そして真龍の唇と重なる。
「泣かせてごめんな。ちょっとした言葉でお前を泣かせた。悪かった。今日はちゃんと帰る。今度泊まるようにして来るから」
「うん」
真龍の気持ちが唇を伝ってくる。優しく大事にしてくれようとする気持ち。真龍が話した事に返事をして、香月は一歩下がった。
「困らせてごめんね」
「困ってない。俺こそ悪かった」
お互いに謝って、顔を見合わせて笑った。その時の表情を見たお互いは、〈子どもの頃と同じ顔〉と思っていた。
「じゃあ行くな。何かあれば連絡しろ。お前は1人暮らしだから心配だ」
「大丈夫。ずっと暮らせてたんだから。でも何かの時は電話するね」
「ああ。宮坂、行くぞ」
真龍は車に乗り、店を出た。香月はしばらく車に手を振っていた。
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