濃淡

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 夏休みが明け、久しぶりに学校に行くと、髪を短く切っている女子がいたり、眼鏡からコンタクトに変えている男子がいたり、とキャンパス内はイメチェンの嵐に襲われていた。無論、僕はイメチェンなどということには興味が無い。髪を茶髪や金髪にしたいとは思わないし、ピアスを開けたいとも思わない。今の自分に満足しているからだ。  だが、隣にいる航はどうやら別の意味でイメチェンをしているようだ。姿も前よりが、精神状態はされている。 「航、何かあったか……?」  僕は机に項垂れる航に言うと、いつもより酷い隈の顔をこちらに向け、まるでを上げる。その姿も、僕も少しだけ心の中で悲鳴を上げてしまった。 「分からないんだ……あの子が……このが誰なのか……」  そうやって悲しそうに呟く航に、僕は首を傾げると「言っている意味がさっぱりなんだけど」と正直に言う。航は眼球だけ動かして、僕の動きを目で追うと、溜息を漏らす。それからゆっくりと体を起こすと、今度は椅子の背もたれに体重を預けた。 「僕、この間初めてと思ったんだ」 「……は?」  僕は思いもよらぬ言葉に、思考回路が一瞬停止する。航は特にそれを重くは受け止めていないようで、天井を見上げながら言葉を続けた。 「10、ずっと。星を見上げると、僕は知らないが聞こえるんだ。星の輝きが増せばその声は強くなる」 「声?」  航はこくりと頷くと、僕の方を向かずに、じっと天井を眺めながらその言葉を記憶の中から反復するように言った。 「私のこと、忘れないでね。約束だよ。絶対だからね」  その言葉を言うと、航が苦しそうな表情をして、天井から視線を反らした。げっそりした頬を見ていると、相当悩んでいるのが分かる。もしかして、航がここ10年ずっと不眠症に悩まされているのは、その声がなのではないだろうか。 「もう10年だよ。10年、ずっと、毎日。この声が頭の中で繰り返される。星を見上げなければ聞こえない。でも、僕はどうしてもんだ。のように、どうしても」  最後の一言をぽつりと呟く声に、僕はしばらく考え込む。星を見上げる度に、聞こえてくる謎の声。10年という長い間、ずっと。10年前に航には何があったのだろうか。きっと、航に何かがあって、その傷が具現化して、星を見上げる度に声として航に襲いかかっているのだ。 「その声が聞こえるようになった切っ掛けは?」 「……事故。10年前、僕が小3の時、家に帰る途中で車にされたんだ」  轢き逃げ、という言葉を聞いて僕は嫌悪感を抱く。人を轢いてしまったことに対する恐怖心、自分が犯罪者になってしまうことへの自己嫌悪が勝ってしまい、優先すべきことを後回しにしてしまう。それが僕は嫌だった。自分で手を汚してしまったのなら、きちんと罪を償うべきだ。逃げてはいけない。ちゃんと向き合わないと、これから先、ずっとその十字架を背負うことになる。 「両親に聞いても、分からないって言われてさ。結果、10年間分からずじまい」  航が鼻で笑って、また机に項垂れるとため息を吐く。  よくよく考えたら、航が自分の話をするのはな気がした。いつも航は自分について話さない。聞いても、言葉を別の話題にする。だから僕もそれを気遣って、あまり航について聞いてはいなかった。だから、こうして航が胸の内を打ち明けてくれたことに、嬉しく思う。少し、距離が縮まったのではないかと都合よく解釈してしまいそうだ。 「僕さ、死にたいって初めて思ったって言ったじゃん? あれさ、この声が原因なんだ」  航が机に項垂れながら言うと、僕は黙ってその話に耳を傾ける。今は、口を挟むよりは黙って話を聞いてあげる方が航の為だと思ったからだ。 「この前、久しぶりに家に帰る途中で公園に寄ったんだ。小さい頃からの、馴染みの公園。小学生の時は、学校帰りによって遊んでたりした。僕は一人暮らしだけど、実家から家は近くてさ。昼間は子どもで賑わっているのに、夜だから誰もいなくて。それに心惹かれて、ふらっと立ち寄ったんだ」  航が懐かしそうに言うと、そっと机を撫でる。瞳には少しだけ、悲哀の色が混ざっていた。一体、その瞳には何が写っているのか、到底僕には想像できない。 「そして、星を見上げた。案の定、声が頭の中に響いた。何度も、何度も。僕はその子を思い出せないのが辛くて、嫌で、衝動的に死にたいと思った。何でかは、僕にも分からなかったよ。でも、死にたいと思った。と」  目付きが一瞬にして鋭くなり、僕はその変化にゾッとする。恐怖を感じたことはあるが、人に対しては一度も無かった。いつもと違う航の様子に、僕は心の奥で怯えながらじっと航を見つめる。航はそれからしばらく声を発しなかった。 「。いや、少女と言っていいのかな。僕と同い年のように。無邪気に笑う、涙目の彼女」  唐突に続きを話し始めた航に、僕は直感でその人が幽霊であることを悟る。きっと、航と何かしらの関係を持っているのだろう。でも、それを航は思い出せない。事故によってなのか、それとも航の精神状態によってなのか。どちらが原因とも取れるその出来事に、僕の思考は多方向に行き渡ってしまい、パンク状態になりそうだった。 「その子に、死なないでって言われた。君だけには死んでほしくないって。私の為にも生きて。最後まで助けてくれてありがとう。君は守ってくれた。でも私は期待に応えられなかった。ありがとう、じゃあね。届いてるよ、君の想い」 「そう言われたの?」 「僕には、何が何だか分からなかった」  やはり、航とその人の間に何かがあったのだろう。10年前、航はまだ小学3年生だ。その子が同い年ならば、彼女も当時小学3年生だったということになる。 「でも、彼女を視て懐かしく思った。忘れてはいけない何かを、僕はんだと思った。でも、思い出せない」  航はまた悲しそうに呟いて、浮かべていた涙を拭う。それからチャイムが鳴って、教授が教室に入った。そこで、自然と僕たちの会話は途切れた。
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