濃淡

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 家に帰るなり、僕は「ただいま」と言うと、リビングに寄らず洗面台へと向かう。手を洗って、口を濯ぐと、鏡越しに真昼と目が合った。僕は一瞬ビックリすると、後ろを振り返る。 「遅かったね」  真昼は僕をじっと見て言うと、僕は「ああ」とだけ言って、真昼の横を通る。階段を上って、自分の部屋に入るとベッドにダイブした。真っ暗な室内は、自分の気持ちさえもマイナス方向へと持っていってしまう。今頃、航は星を見上げているのだろうか。灰原さんの最期の声を何度も脳内で再生させながら、泣いているのだろうか。そう思うと、何もできずにいる自分が虚しくなる。 「お兄ちゃん」  ドア越しで真昼の声が聞こえると、僕は体を起こす。真昼が恐る恐るといった様子でドアを開けると、部屋の電気を付けた。それから僕の近くまで来ると、床にちょこんと座る。 「何?」 「何かあったんでしょ」  僕はその言葉を聞いて、顔を引きつらせる。やはり、家族には誤魔化せない。特に兄妹なんかは、嘘を吐いてもすぐ。血縁というのは、本当に怖いものだ。どんなに、相手が何考えているのかなんてすぐ分かってしまう。 「また幽霊に会った」 「今度はどんな人?」 「航と同級生の女子」 「航って、お兄ちゃんが仲良い?」  僕はこくりと頷くと、今日何があったのかを全て真昼に話した。真昼は、心理学に興味があって、大学生になったら心理学を本格的に学びたいと言っていたから、何か分かるかもしれない。 「星を見上げる度に、聞こえる声。忘れてしまった存在……」 「航は、やっぱり灰原さんの死がショックで、灰原さんの存在をのかな? まだ小3だったわけだし……」 「いや、本来ならばそれは、つまりに繋がるはずだよ。忘れるんじゃなくて、強く記憶に」  確かに、嫌な記憶ほど人間は残ってしまうとどこかで聞いたことがある。小さい時なら、尚更だ。人の死、それが家族だったり同級生だったりと身近な人物であればあるほど、トラウマになる。でも、航はトラウマになることも無く、灰原さんの存在を忘れてしまった。これは一体どういうことだろう。 「小此木さんは、一種のなんじゃないの?」 「記憶障害?」 「、といった方がいいかもしれない」 「航が……?」 「まだ決まったわけじゃないけど、可能性は十分高いと思う」  僕は自分の手のひらを見つめると、航がもし記憶喪失で灰原さんのことを忘れているのならば、それはトラウマを通り越しているのではないのだろうか。もし、航が灰原さんのことを思い出したら、何が起こるか分からない。もしかしたら衝動で自殺する可能性だってある。なら、思い出させない方がいいのではないだろうか。でも、10年もの間幽霊として現世に残っている灰原さんの気持ちも考えると、やはり思い出させるべきなのだろうか。 「記憶喪失でも、全てを忘れるんじゃなくて、に関してだけを忘れることだってある。だから、生前灰原さんと小此木さんは何かあって、あまりにもの衝撃で灰原さんの記憶を忘れてしまった」 「……思い出したら、航はどうなるんだろう」 「分からない。でも、小此木さんが思い出したがっているのなら、思い出させるべきだと思う。それで小此木さんが報われるのなら」  僕はぎゅっと口を噤むと、脳内で必死に未来を描いた。真っ白なキャンバスに、絵具で濃淡をつけながら、航が灰原さんを思い出して、灰原さんが成仏された後の未来。  そこに描かれたのは、ぽっかりと穴が開いてのようになってしまった航だった。僕はその未来を、真っ黒な絵の具で塗りつぶす。 「そもそも、どうして星を見上げたらなんだろう……。何か二人に星空が関係しているのかな」  僕は真昼を見ると、真昼が顎に指を当てて考え込む。僕はその仕草を見ながら、真昼の答えを待った。 「二人が事故に遭ったのが、星空の下だったとか。後は、どちらかが星が好きだったとか」 「航は天文には興味ないよ」 「じゃあ灰原さんの方が、」  だから、星を見上げる度に声が聞こえていたのか。灰原さんが好きな星空を見上げる度に、灰原さんの最期の声が聞こえてくる。星の輝きが増せば増すほど、その声は強く頭に響く。なんて、残酷なのだろうか。それが10年も続けば、不眠症にはなるし、酷い顔色にもなるはずだ。  死にたいと思った、と聞いた時大袈裟だと思ったが、もし僕が航の立場だったらきっと同じことを考えていたのだろう。 「僕はさ、航が灰原さんを思い出すのが、……」  大切な人が、また僕の前から消えてしまったら、怖い。自殺なんて、尚更だ。交通事故に遭って、轢かれて死ぬより、自ら命を絶つ方が嫌だ。自殺したと聞く方が、精神へのダメージは凄まじい。 「じゃあ、このまま思い出させないで灰原さんをそのままにするの?」  真昼には何の悪気も無いのだろう。でも、その言葉が今の僕にはぐさりと刺さった。頭の中で、航の生死と灰原さんの苦しみが天秤にかかって、ぐらぐらと揺れている。 「お兄ちゃん、小此木さんはそういう人なの? お兄ちゃんが一番傍にいるんだよ。お兄ちゃんの目に映る小此木さんは、そんな人なの? 私は、何回か小此木さんに会ったことがあるけれど、そうは思わない」  真昼が真っすぐな瞳で僕を見上げると、僕はしばらく考え込んで、首を横に振る。 「」  僕ははっきりと言うと、立ち上がって近くに放り投げた鞄の中からスマホを取り出し、操作する。数回のコール音が鳴り、『はい』という声に僕は「もしもし」と返した。 『何?』 「今週の土日のどっちかで、航の家に行っていい?」  僕は真昼と目を合わせると、真昼がそっと口角を上げた。
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