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相変わらず顔色の悪い航が教室に入るなり、眠たそうに机に顔を突っ伏す。本来ならば、彼の貴重な睡眠だし、僕も邪魔はしないのだけれど、今日だけは違った。
「なぁ、初恋の相手って覚えてる?」
「初恋?」
航が机に顔を突っ伏しながらも、僕の方を向いて、考え込む。それから顔を上げると、椅子の背もたれに体重を預けた。
「うん」
「え……?」
「覚えてるよ。顔とか名前とかは覚えてないけど、でもどんな子だったかは覚えてる」
僕は数回瞬きをすると、航が「それがどうかした?」ときょとんとした顔で聞いた。僕は下唇をぎゅっと噛むと、必死に溢れ出そうになる感情を抑える。
「どんな子だったの?」
僕はやっと絞り出した声で言うと、航が顔を顰めて僕を見る。しわがれた声だったから、きっと気になったのだろう。でも特に突っ込みもせずに、「んー……」と考え込むと、天井を見上げた。
「星が好きだったよ」
「星?」
「うん。教室とかで、いつも星の図鑑を読んでた。大人しくて、優しい子で、笑うとその場所が温かくなるような子だったな」
名前も姿も覚えていなくても、灰原さんへの淡い恋心は忘れたわけではなかった。僕はそれを確信すると、口角が自然と上がった。
「どっか誘ったりとかした?」
「んー、あ、プラネタリウムに行こうって誘ったよ。でも行けなかったなぁ」
「それは、どうして?」
そこで、航の声が途切れた。航は天井を見上げたまま、涙を流していた。それは唐突なことで、僕は思わずぎょっとする。航はどうやら気づいていないようで、涙を拭わずに天井を眺めたままだった。
「航……」
「思い出せない。何でだろう、思い出したいのに、彼女のことが思い出せない。それがずっと続いてる気がする……あれ、何で僕泣いて……」
航がやっと自分が泣いていることに気が付くと、涙を両腕で拭う。僕はそっとティッシュを航に渡すと、航が一度僕を見て、はにかんだ。
「ごめん、ありがとう」
そう言って、ティッシュで涙を拭う。でも、涙はなかなか止まず、拭っても、拭っても、涙は消えなかった。今まで流せなかった涙が一気に溢れているようだった。
「あれ、何で僕泣いて……ははっ、みっともない」
航は何度もそう言いながら、一枚、また一枚とティッシュを取っていく。そしてどんどん湿らせ、航の近くには濡れた丸まったティッシュの山が出来上がっていた。
「何で思い出せないんだろう……。あの子のことといい、僕そんなに記憶力悪かったかなぁ」
違う、と言いたかった。でも言えなかった。忘れているのではなくて、抜けているのだ。その記憶が、頭の中からぽっかりと。決して、忘れているわけじゃない。だって、灰原さんに抱いていた感情を覚えているのだから。
***
「小此木さんは、相当辛いと思うよ。灰原さんも」
真昼が静かに言う。静寂に包まれた僕の部屋は、秋に近づいている夏だとは言え、ひんやりとしていた。冷房も扇風機も付けていない。きっと、感情のせいだと思う。
「好きな人、大切な人に忘れられることは辛い」
「だよな……」
「目の前にいるのに、触れられないのと一緒だよ」
僕自身も、稔ちゃんのことを経験しているからよく分かる。もし、稔ちゃんのことを僕が忘れてしまったら、稔ちゃんは相当辛いはずだ。それがもし、逆の立場になっても。僕は稔ちゃんに忘れられたら辛いし、絶対に忘れてほしくない。だから、灰原さんは相当辛い状況に立っていると思う。10年も長い間、その気持ちに苛まれているなんて、考えただけで頭痛がする。
「私も、好きな人や大切な人が記憶喪失で忘れられたら悲しい。その死さえも無かったことにされるのは、嫌だ」
真昼が言うと、妙にリアル感が増した。真昼は顔色を変えずに淡々と言っているが、その言葉にはどこまでも深く解釈ができるような、奥深さがある。
「僕は、灰原さんを助けたい」
「それは私も」
真昼が息を吐くと、床に横になり、天井を見上げる。病気なのではないかと思ってしまうほど、色白の肌は、夕焼けに照らされていて、何となく尊く感じてしまう。儚い何かを見ているようだった。
「小此木さんに言うの?」
「ああ」
「あの公園で?」
「ああ。真昼も来てほしい」
「うん」
僕は今朝の航の涙を思い出しながら、ベッドに横になる。航の涙を見たのは、初めてだった。泣きそうになる所は見たことがあるが、実際に涙を零している所は見たことが無い。それだけ、感情を抑えていたということだろう。
10年の二人を苦しみを、僕が断ち切る。僕が灰原さんの存在と、灰原さんの記憶を淡い色から濃い色に染め上げるのだ。
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