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「それじゃあ、宜しくね」
母さんはそう言って、僕に1万円が入った香典を渡すと、仕事のためそそくさと出て行く。父さんは既に会社に出勤していて、家の中には僕と真昼の二人しかいなかった。
休日なのにも関わらず、両親揃って休日出勤とは社会人も大変なものだ。僕は香典を鞄に仕舞うと、久しぶりに着た真っ黒なスーツに窮屈さを感じる。
ソファでは、真っ黒なワンピースに身を包んだ真昼がテレビをじっと眺めていた。
僕はリビングを後にして、洗面台の鏡の前まで来ると、ネクタイを緩める。ネクタイは苦手だ。結ぶのが苦手だとかそういう意味では無くて、ただ単純に首が締まるのが嫌なのだ。だから高校生の時は、ネクタイはいつも緩めていたし、集合写真や集会の時しかきちんと締めていなかった。何なら、ネクタイをしていない日もあったぐらいだ。
真昼も首が締まるのが嫌なのか、リボンタイはいつも緩くしてある。たまに緩すぎでは無いだろうかと思う日もあるが、それがどうやら女子高生の流行らしい。
スカート丈は膝より上で、リボンタイも緩い。靴下は短いし、シャツの第一ボタンは必ず開けているし、それを言われたら僕もそうだったが、それでも中学の時の真昼の方が真面目な雰囲気を持っていた気がする。そろそろ髪を茶髪に染めても可笑しくなさそうに思えた。
まぁ、真昼がどうなろうが僕にはどうでもいいことなのだが。
僕はリビングに戻ると、真昼はさっき見た時と変わらない位置でじっとテレビを観ている。僕は真昼と少し間隔を空けてソファに座ると、テレビにじっと耳を傾けた。内容としては、どれもあまり興味が無い。でもスマホをいじる気も無くて、テレビの内容を頭に入れておくことにした。さすがに時事は、知っておいた方がいい。知らないだけで、まるで周りに誰もいなくなったような気分になる。
真昼は一瞬僕を見ると、なぜか溜息を吐いて、テレビに視線を戻した。なぜ溜息を吐いたかについては、聞かないことにしておく。聞いたら、何だか嫌な回答が返って来そうだったからだ。
稔ちゃんの三回忌まで、1時間という所で僕はソファから立ち上がり、テレビの電源を切った。
「そろそろ行くぞ」
真昼は一瞬驚いたような顔をして、それからこくりと頷くと、黙って僕の後をついてくる。僕は黒いプレーントゥの靴を履くと、外に出る。外はどんよりとした曇り空でも雨空でもなく、雲一つない快晴だった。僕や他の参拝客の心には、とても似合いそうにない空だ。
「お兄ちゃんは——」
「何?」
僕は真昼が言った言葉を遮るように言ってしまったことに反省すると、真昼がまた驚いた顔をして、俯く。
「いや、何でもない」
「……そう」
僕たちは黙って葬祭ホールまで並んで歩くと、真昼があまりにも居心地悪そうにしていた。それもそのはずだ。真昼と二人っきりで外に出歩くなんてこと、もう何年もしていない。前回は確か稔ちゃんの一周忌だったはずだ。
「稔ちゃんって……」
「ん?」
「稔ちゃんって、お兄ちゃんの初恋だったんでしょ?」
僕は足を止めると、真昼が素っ気無い雰囲気を纏いながら、数歩前で止まる。僕は目を丸くして、何て返そうか困っていると、真昼に止まるなと注意された。
「何でそう思うんだ?」
「……見てたら分かる」
稔ちゃんが僕の初恋だったことは事実だ。まだ小学生だった僕は、1歳年上の稔ちゃんに好意を持っていたし、あわよくば結婚したいなんてことも考えていたなんてことも否定はしない。それぐらい僕の小学生時代はピュアだったのだ。
「人生、本当に何が起こるかなんて分からないもんだな」
真昼が僕を横目で見ると、こくりと頷く。僕もそれをまた横目で見ると、葬祭ホールが見えてきた。駐車場には色々な車が止まっている。
僕たちは急いで中に入ると、香典を渡して会場の中に入った。もういくつかの席は埋まっていた。僕たちは空いている一番端の席に腰掛けると、真昼の顔がさらに暗くなる。
人生、本当に何が起こるかなんて分からない。まさか稔ちゃんが交通事故に巻き込まれて死ぬなんてこと、誰も想像していなかったと思う。だがその半面、どうして想像しなかったのだろうという考えもあった。
僕たち人間は、いつ死んでも可笑しくない状況に立たされている。だが、それでも明日があるとなぜ言い切れるのだろうか。寝ている時に心臓麻痺を起こして、一生目を覚まさない可能性だってあるのに。歩いていたら、通り魔に刺されて失血死する可能性だってあるのに。どうして僕たちは明日に希望を抱いているのだろう。
稔ちゃんのように、交通事故に遭うことだってある。何らかの感染症にかかって、死んでしまうことだってある。
それなのにどうして僕たち人間は明日があると思うのだろうか。
未来を決めるサイコロでも持っているのだろうか。サイコロを振って、出た目に沿って未来が決められる。そんな出来事でも起こっているのだろうか。
しばらくして、全ての席が埋まると、後ろの重たいドアを開けて僧侶がやって来た。僕たちは僧侶の後ろ姿をじっと眺めながら、向こうが一礼したのを切っ掛けに一礼する。そしてふと、視線を会場の壁際に巡らせると、一人の少女がじっと僧侶を眺めていた。
長い艶めいた黒髪に、前髪を流した背の高い少女が黙って施主の挨拶を聞いていた。
まさに遺影の写真そっくりの少女は、僕と目が合うと驚いた顔をする。僕も驚いて、つい顔を反らしてしまった。
僕には、幽霊が視える。
数か月前から、理由も分からず視えるようになった。
そして稔ちゃんの三回忌の今日、僕の目の前に死んだはずの稔ちゃんが変わらず立っている。知り合いの幽霊に会うのは、これが初めてだった。
僕は真昼をちらっと見ると、真昼は黙って施主の挨拶を聞いていた。そろそろ挨拶も終わり、僧侶の読経が始まる所だった。真昼は僕の視線に気づいて、僕を見るなり顔を顰める。そして、ふと一点を見つめて驚いた顔をした。
真昼にも、幽霊が視える。
僕と同じ数か月前から。薄々そうなのでは無いかと思っていたが、やはり僕の予想は当たっていたらしい。
稔ちゃんも真昼の視線に気づくと、また驚いた顔をして辺りをキョロキョロと見渡す。だがその視線が紛れもなく自分に注がれていることが分かると、パッと笑顔になって、それから少し微笑みながら手を振った。
数か月前の僕たちなら決して視ることの出来なかった、稔ちゃんの幽霊だった。
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