試衛館

1/1
17人が本棚に入れています
本棚に追加
/22ページ

試衛館

 江戸の街を駆け抜ける。  息が上がって、思うように呼吸が出来ない  「はぁ……はぁはぁ……はぁ…………」  雨が辺りをくまなく濡らしていく。私は歯を食いしばり、必死に母の着物の袖を掴む。  「いのり……!」  母は私の名を呼びかける。答える余裕なんてなくて、私は母の顔を見上げる。ボロボロの男物の着物を、頭まですっぽりかぶった母の息が、また少し荒くなる。  「い、のり……!」  私を安心させるためか、はたまた自分の気力を保つためか、母は私の名を呼び続ける。  民家の角を曲がったところで、母がひと息着こうと座り込んで、襟元を少しずらし、深いため息をつく。私は隣に正座していた。母の長い髪が、風に揺れて私の額を二、三度叩いた。  傘の一つも歩いていない、明け方の道。煌々と燃えていたあの場所は、もう背後にも見えなくなった。火事にとっては救いの雨も、私たち母娘にとっては何よりも鋭い凶器となった。  そして悲運は重なる……  「おお? 女じゃねえか」  間延びしたかすれ声に顔を上げると、目の前で男が三人笑っていた。何故か見覚えのあるような顔。欲に溺れた亡者のような顔。母が私に手を伸ばした。  ……それ以上の話し声は聞こえなかったのか、それとも覚えていないだけなのか、唯一、感情は恐怖に覆われてしまっていたことだけ。そしてこれは私の、一番古い記憶である。  ──突然だった。  生臭い匂いが鼻をついた。同時に視界が血色に染まる。何が起こったか把握できない私の目の前には、胸のあたりを真っ赤に染めた母がいた。  「い、のり……お願…………」  何かを告げようとした母は、最後まで伝えきらずに息絶えた。繋いでいた手は、いつの間に離れてしまったのだろう。  「ふへへへ……ガキ一人残しちゃあな」  男の声が近づく。白刃が振り上がる。髭面が笑っている。私を消そうとする。  あまりの恐怖に、目を瞑ることすらできない。同じ姿勢で座ったまま、ゆっくり振り下ろされる刀と、狂ったような男の顔を見ていた。ギラリと音を立てるかのような刀身を、その時私は、美しいと感じた。  ──刹那  男の表情が固まり、その場に崩れ落ちる。放り投げられた刀は、私のすぐ隣に落ちた。この男の背後には、一人の青年が立っていた。  「すまない」  青年は申し訳無さそうな顔をして、すっかり冷たくなった母の傍にしゃがんだ。  「なんで謝るの?」  青年は私の問いには答えず、小さく微笑んだ。私はその笑顔に、少しの安らぎを覚えた。  「宛てはあるのかい」  青年が尋ねる。母娘身一つで逃げ出してきた私には、もう何にもない。けれどそれを口に出したら、何かがこぼれてしまいそうで、私は何も答えられなかった。  「ついておいで」  青年は母の亡骸を担ぎ上げて歩き出した。私は転びそうになりながら、その背中を追いかけた。  たどり着いたのは、誰もいない道場だった。その片隅に青年は腰を下ろした。「あがっておいで」と言われ、私は草履を脱いで隣に座った。  「俺の名は、嶋崎勝太。君の名を教えてくれないか?」  名前を聞かれた。初めてのことに戸惑いつつ、私は私の名を告げる。  「いのり」  多分……そう言いそうになってやめた。周りにそう呼ばれていたから、その名を告げた。  「祈り、か。いい名前だ」  考えたこともなかった青年の言葉に、私は少し小首を傾げた。  「ここで暮らすといい」  無駄に優しい声音、また何かがこぼれそうになって私は口を噤む。嶋崎勝太はまた微笑んだ。  「怖かった……」  母親が死んだ。亡骸の前でやっと理解して、縋り付いた。やっと涙が出てきた。今は泣いてもいいんだ。頭に置かれた大きな掌が、そう言っている。  外が完全に明けてしまうまで、私の涙は止まらなかった。その間、嶋崎はずっとそばに居てくれた。  嶋崎勝太は、のちの新選組局長、近藤勇  六つの頃の出会いだった。  その日から私は、内弟子として世話になることになった。  道場は男社会。動きやすさも考えて、私は男の着物を着ている。試衛館の門下生だけ、私が女だと知っていた。  毎日嶋崎勝太は、私に稽古をつけてくれる。私は勝太と呼んでいる。一年稽古に励んだら、年上ばかりの門徒たちとも試合ができるようになった。うまくできたら褒められる。それが初めてのことのように嬉しくて、木刀を肌身離さず携帯しては、見つかって怒られる。背負ったまま雑巾掛けをする。落とさないように左右の均衡を保ちながら。慣れてきて本数が増えることが、楽しくて仕方がない。  「祈くんかい? 流石にへばったようだね。手伝うよ」  木刀に埋もれていた私に、穏やかに声をかけてきたのは、井上源三郎。  「源さん、ありがとう」  源さんは、時々勝太の代わりに稽古をつけてくれ、またこうして私の雑用を手伝ってくれる、優しいおじいちゃん……まだ二十代だ。  一年間。私は味わったことのない毎日を、ただ楽しく過ごしていた。
/22ページ

最初のコメントを投稿しよう!