七年後の八月に

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盆の時期はどういうわけか来客が多い。森は幸豊かで木陰は涼しいから、人間が吸い寄せられるのも肯ける。人を追い返すのが私の仕事だから、人は来ないでくれた方がいいのだが、同時に私は人と話すのが楽しいのだ。追い返す来客を楽しみに待っている。西の警備は気楽なものだ。 今日は山の中に人影が見えたから風志朗を見回りに連れてみることにした。人になりきれない風志朗は、カラスのまま私の肩に乗せている。 「天狗の姿は、人間には内緒だ。翼をしまうにはちょっとコツがいるんだ。今日はこのまま乗っていなさい」 風志朗は私の首に下げた虫かごを気にしている。昼間セミと遊んでいて、そのまま連れ歩きたいと主張したのだ。出掛けに丁寧に首にかけられてしまった。 「セミは元気そうだよ」 虫かごを肩まで持ち上げる。かごが揺れるとセミは少し鳴いた。風志朗はクルルと返事をする。セミとカラスとで会話になっているのかわからないが、それは私と弟子だって一緒である。風志朗はたぶんわかっている。風志朗はたぶんこう言っている。私がそう思っているだけかもしれない。この子が言葉を喋るのが楽しみで、少し怖くもある。 「風志朗、文明人の仕事だ。よく見ておいで」 人影は老婆で、山を登ろうとしていた。私は山を下り、自然な鉢合わせを演じる。老婆は私に気づいて挨拶した。 「もし、ご婦人。このような時間にいかがいたしましたか」 「行者さん?この辺にお寺なんかあったかしら」 「旅をしながら修行をしておるのです」 旅の修行者、はよく使う便利な身分だ。後腐れないし、疑われない、権威もある。 「ご苦労様でございます。ええ、私は山菜をね。昼間は暑くてねえ。いつもこの時間にとっているのよ」 「何かとれましたか?」 「ワラビがねえ。行者さんもどうぞ」 老婆は私を拝みながら、一番上等そうなワラビを差し出した。背負子は半分も満たされていない。 「いや、かたじけない。ではありがたく頂戴いたします」 風志朗が腕を伝って下りてきて、ワラビについた虫を啄んだ。 「あら、この鳥、よく慣れてるのねえ」 「行儀が悪くて申し訳ない。旅の途中で懐かれましてな。なかなか愉快な奴です」 噛んだりしないわよねと、恐る恐る老婆は風志朗を撫でた。風志朗は大人しい。 「ところで、ここらは荒くれた野犬が出ると聞きました。日があるうちに帰られた方がよろしい。私が麓まで送りましょう」 野犬などいなかったが、老婆は私の言葉を信じた。信心深いことで助かる。老婆を送り届けた先は山間の集落だった。時代は分からないが皆着物を着ており、電気はない様子だ。我々の土地は海を漂う小舟の如く、場所も時間もお構いなしに現世のあちこちにつながってしまう。 「帰ろうか。私たちも」 遠くでカラスが鳴いた。風志朗は気を取られている。この子はまだ親兄弟を探しているのかもしれない。風志朗は一年前に西から迷い込んで、帰れなくなった。もっと昔に、私もそうだった。 翌朝、風志朗が木の根元にいた。今日はカラスのままだ。覗き込むと、件のセミが仰向けで死んでいた。見つけてから二十日の命だった。風志朗は昨日と様子が違うセミをくちばしで突いている。 「どうしたんだい」 風志朗は首を傾げる。今日もセミと遊ぶつもりでいたのだろうか。動かないセミを見て、苛立たしげに鳴きはじめた。この小さなカラスは、セミの魂がそこにないことを知らず、態度を変えたと思い鳴いているようだった。 さて、どうしたものか。それはもう二度と動かないんだ、と言ってしまおうか。いつかはこの子も分からねばなるまいと、現実を突きつけるのを大人はよしとしがちだ。しかしこの子はまだ子供だ。昨日まで動いていたそれはもう終わってしまい、親しい者も順に終わりが来て、いずれは自分の番が来る。それは足をすくませ、ときに生きるのを立ち止まらせる。長く生きた私だってそうだ。この世に生まれて一年のこの子に、私は。 「眠ってしまったね」 風志朗はセミを突くのをやめない。 「そんなに突いては痛いよ。よしなさい」 風志朗はくちばしを離した。 「しばらく起きないよ。セミは地上に出て半月もすると、疲れて寝てしまうんだ。また土に戻してやれば、いずれ地上に出てくるだろう」 突然だったろう。君はまだ幼い。これから学ぶべきことは多いが、あえて今分からなくていいこともたくさんある。 クルル、と鳴いて風志朗は木の根本を掘り始めた。 「手伝おう」 これと同じ種のセミが鳴いていた。春から一層茂った新葉の匂いが濃く、日向と陰の境界が痛いほど鮮明な、夏の盛りだった。陽が差してきて背中がジリジリと熱い。翼を広げて、木の根本に日陰を作る。地面が焼けてからでは熱いから。風志朗は私を見上げて短く鳴いた。 「どういたしまして」 最後は私が掘ってやった。土の中はひんやりしている。最後に風志朗が穴を覗き込んだ。頭を突っ込み念入りに見定めたから、頭が土まみれだ。セミの寝床に納得がいったようだ。淵から崩れて浅くはあるが、セミと、私の嘘にはちょうど良い。 「さあ、もういいだろう。さようならだ」 風志朗がセミの亡骸を咥えて、丁寧に穴に入れてやる。風志朗は穴に向かって鳴く。セミの返事はない。掘り返した土をそっくり埋めなおせば、地面は元どおりになる。 残りの夏はどこへ連れて行こうか。何にせよ土まみれのカラスを洗って服を着せないと。弟子を文明人に仕上げる道のりは長そうである。君はそれまで、食べなかったセミのことを覚えているだろうか。
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