七年後の八月に

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丘を登ってくる風が心地よい。ここらで一番高い木の上ならなおさらだ。地上に近いと暑くてかなわない。幹に体を預けて目を瞑る。夏は生き物がいっそう活気づく。土壌が豊かなこの土地はなおさらだ。土を掘る虫、川面に口付ける魚。この森の有象無象の音が聞こえてくる。生き物が発する音は暑苦しくも愛おしい。私は目を閉じて、それらを楽しんでいた。 その音の中に、足を引きずって歩く音が聞こえた。下駄で一歩ずつ、ひょこひょこと歩いてくる小僧がいた。小僧はあたりを見回しながら近づいてくる。 「おうい、じいさんの手伝いはいいのかい?」 驚いて鼻汁の垂れた顔で見上げる小僧は私の弟子、風志朗。去年の今頃に、ここに迷い込んできたハシボソガラスの子供だ。天狗の才があるようだったから、見込んで弟子にしたのだ。人の形になることを教えてから、よくこうして私に見せに来る。木から降りて、弟子の顔を拭ってやる。柔らかい頬は真っ赤で、目線はぼんやりしている。暑気にあたったようだ。黒い羽は熱を集めるのだろう。去年もこんなところを木こりの玄蔵に拾われたらしい。 「ここは暑いだろう。木の上へおいで」 手を引こうとして、風志朗が何かを握っていることに気づく。それは何かと聞くと、風志朗は何かを思い出したようでそれを私に差し出した。小さい掌には、土まみれのセミが載っていた。セミは生きているが逃げない。よく見ると、羽が一枚足りなかった。 「……ん……」 風志朗は私に食べろという。嫌がらせや悪戯ではなく、純粋な好意だ。見た目は人になれても中身は鳥。セミは一番のご馳走だと思っている。 「よく捕まえたね、ありがとう。でもな風志朗、文明人はセミを食べないんだ」 杜番たるもの、文明人になるべし、と教えている。風志朗は不服そうだが心得た顔をした。今度は捕まえたセミを触ったり、匂いを嗅いだりした。セミは嫌がって、ぽたりと手から落ちた。うるさく鳴きながら裏返しで暴れている。 「木に戻してあげなさい」 セミは木肌に張り付けられた。 「羽がないね。うまく飛べるかしら…」 風志朗は飛ばないセミに興味を持ったようで、私のところにいる間、思い出してはセミを眺めていた。 杜番というのは、現世の人間が我々の土地に迷い込まないように警備する番人だ。いつからこの任があるのか定かではない。そもそもこの土地がいつからあるのか誰も知らない。 我々の土地は東端が常世に、西端が現世と地続きで繋がっている。杜番は、自らが人ではないことや、この土地が地図にないことを現世の人間に明かさない。常世はあくまで信仰の対象であり、実在は知られてはならない、というのが常世に生きる者の考えだからだ。迷い込んだ人間には、何かと理由をつけてこの領域から出て行ってもらわなければならない。いずれ杜番となる弟子に、人間と会話するだけの教養を身につけさせるのは、師匠の大きな役割だ。 もっとも、我が弟子はひよっこだから、ややこしいことを教えるのはまだまだ先になるだろう。 日が傾き、あたりが金と黒の世界になる。仕事の時間だ。私は木の上に飛んだ。上空で空気を掴んで、森の全体をぐるりと回る軌道で飛ぶ。鳶の大きな翼は、高く長く飛べる。森の西側は広く現世に開けており、壁も規制線もない。森のあちこちへ目を向ける。玄蔵が下草を刈っている。風志朗がじいさんの近くで仕事ぶりをじっと見ている。じいさんは私に気付いて会釈した。私はそれに応えて鳴く。何か問題があれば地に降りるが、大抵問題は起きない。これは起きないことを確かめる仕事なのだ。 美しい時間は短く、森の気配は夜の生物に交代する。私の仕事は終わりだ。鳥目には暗がりが見えないから。私は自分の粗末な家で眠りについた。
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