11人が本棚に入れています
本棚に追加
『未来』は商店街でも老舗の喫茶店だ。
そしてその隣には、創業昭和四十一年の古びた映画館の『シネマ恋坂』がある。
どちらに先に寄るかは映画の時間にもよりけりだけれど、俺達のデートコースではこの二つはいつも欠かせない。その理由はどちらも学割とは別に『恋人割』がきくからだ。
『恋人割』とは『未来』と『シネマ恋坂』が提携して行っているカップル専用の割引サービスだ。カップルが喫茶店のレシートか映画の半券を提携先でそれぞれ見せると、割引を受けることができる。
中学生の俺達はその優しいサービスにいつも助けられている。
『未来』では、夏帆はいつも玉子サンドとホットココアを注文する。
夏帆は飲み物は常にホットだ。それは夏でも関係ない。冷たい飲み物は苦手らしい。
そして熱い飲み物を、ふぅふぅと冷ます仕草がとても愛らしくて、俺はそのときの夏帆をいつも楽しく眺めている。
「颯くんのナポリタン美味しそう」
「少し食べる?」
「じゃあ一口だけ」
ケチャップがふんだんに使われた赤々とした夕陽のようなナポリタンを、俺はフォークにくるっと巻いて、夏帆の口にそっと運ぶ。
夏帆は静かに口を開けすっと中に収めると、口元を手で覆い、しあわせそうにあごを動かしていた。
「どう?」
「すごく美味しい」
「よかった」
こんな風に夏帆のほっとする笑顔を見ることができるのも、もうあとわずかしかない。
毎日の当たり前、日常の一部が欠落する。
まるで、完成したジグソーパズルのピースが一つ抜け落ちて、ポツンと穴が開いてしまい、永遠に完成しない寂しい作品になってしまうかのようだ。
夏帆はもう、俺の日常では当然なのだ。
朝は太陽が昇り世界が目覚め、夜は月明かりの中で人が夢に誘われるように、日常の当たり前なのだ。
それを喪失することが、俺はたまらなく恐ろしい。
夏帆を失うことは世界を失うことと同義だ。
夏帆と離れてしまえば、俺は俺でいられなくなるかもしれない。
こわい、おそろしい、いまだかつて俺の人生の中で、これほど恐怖に感じることがあっただろうか。
夏帆と離れたくない。
一緒に大人になりたい。
同じ高校を受験して、同じ大学に通って、就職は違っても、いずれは夏帆にプロポーズして、同じ時と思い出を共有して、ゆっくりと年を取る。
付きあい始めの頃、ぼんやりとそんな希望めいたことを考えたことがあった。
夏帆はどうなのだろう。
今日、俺はそれを確かめなくてはならない。
夏帆の思いを。
最初のコメントを投稿しよう!