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「颯くん、ケチャップついてるよ」
食べ終わった俺の顔を見て、しょうがないなぁという表情をしてほほえみ、夏帆が口周りをナプキンで優しく拭ってくれる。
子供扱いされたような気になるかもしれないけれど、こういうことをしあわせと呼ぶのかもしれない。
「ありがとう」
駄目だ。
涙がこぼれそうだ。
「どういたしまして」
「そろそろ時間でしょ?」
夏帆を前にしていたら、俺はいつ顔を崩してしまうか自信がないので、水を向けることにした。
「……そうだね」
一瞬、夏帆が答えるまでに間があったような気がした。
「どうかした?」
「ううん、なんでもないよ。行こうか」
「そうだね」
通常ならば支払いの際は学生証を提示しなければならない。けれど常連の俺達はマスターから顔パスでいいと許可が出ている。
今日も通常の料金から学割と恋人割を合わせて、6割引の価格での支払いだった。
店をあとにすると、夏帆はマスターに話があると再び中へ戻った。
軒先からガラス越しに中を見遣ると、夏帆がマスターにペコリと頭を下げていた。
いままでお世話になりました、ということなのだろうか。
「何の用だったの?」
出てきた夏帆に尋ねてみた。
「引っ越すから、いままでお世話になりましたって」
夏帆は少し顔を伏せ、呟くようにそう言った。
引っ越しは嫌だと、以前夏帆は言った。
当然、俺も夏帆と離れたくはない。
でも、まだ14歳の俺には、それに抗う方法も資格も無く、ただ海を漂流する筏のように、流れに身体を預けることしかないとわかっていた。
風と潮に任せて、ただ漂う。
でもオールを持って、少しでも流れに抗うべきだと、いまの俺はそう思っている。
「マスターはなんて言ってたの?」
「元気でね……って」
「そっか」
「ねえ颯くん」
「なに?」
「恋人割の由来って知ってる?」
「由来?単にお隣さん同士でお客さんを呼び合おうってことじゃないの」
「ブーっ。違います。未来のマスターと恋坂のオーナーは、むかし恋人同士だったんだって」
「そんなの初めて聞いたよ」
「この前、一人で未来に行ったときにマスターに聞いたんだ」
「一人で行ったの?」
「ああ……うん。引っ越す前にもう一度ね。でも颯くんは、その時部活だったから」
「でも、また来たね」
「そうだね」
「よくそんなこと教えてくれたね」
「……うん。もう昔の話だからって。学生の頃、二人は恋人同士だったけど。オーナー達の時代は親同士が結婚を決めるのも当たり前だったんだって。いまなら考えられないよね」
「そうだね。それで二人は別れたの?」
「うん。でもお互い結婚生活はうまくいかなかったんだって。オーナーは家が経営してた恋坂を継いで、マスターはその隣の土地を買って喫茶店を建てたんだって」
「それで恋人割を始めたの?」
「うん。お互い結婚はもうできないけど、せめて自分達の店に来てくれる恋人達を応援しようって。だから『恋人割』なんだって」
「なんか、いい話だね」
「うん。すごくいい話。私、これ聞いて、ますます未来と恋坂が好きになったよ」
恋坂の入り口で俺達はそんな話をした。 券売所の中にいるオーナーに、そんな過去があったのは驚きだったけれど、今の俺には夏帆との未来の方がずっと重要だった。
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