第一話 my girl

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 二日後、夏帆は東京へ引っ越した。  俺は見送りには行かなかった。いや行けなかった。  部活にも顔を出さず、この二日間はずっとベッドの上で突っ伏していた。  母親の洗濯の手間を際限なく増やす程、シーツを何枚も何枚も涙で濡らし続けた。  夏帆が最後に言った台詞。  『きっとどこかで、また──』  最後がよく聞き取れなかったけれど、夏帆はなんと言ったのだろう。  ──会おうね。  ──会えるといいね。  どちらにしても、偶然に頼るようでは天文学的な確率だ。  人口1億2000万分の2の俺達が、377,900k㎡の面積の中で、いつか逢う確率なんて、計算するだけ時間をドブに捨てるようなものだ。  絶望的な値の羅列に、あらためて残酷な現実を知る。  携帯を持たない俺達は、もう互いに連絡を取り合う手段がない。  夏帆は俺との別離を選択した。  やはり14歳の俺では、東京と福岡の物理的な距離を埋める有効な術や資金も無く、ただ筏になるしかなかったのだ。オールもない、ただの筏に。  俺はこれからどこに漂うのだろう。夏帆という最愛と日常を失って、これから、どこに。  時が、心を曖昧にしてくれるのだろうか。  いや、時はただ残酷に刻むだけだ。夏帆が存在しない現実を残酷に刻んで、俺にその事実をどうしようもないほど突きつける。  夏帆がいない日常を否が応でも、無慈悲に俺に披露する。  そういうことをこの二日の間、何時間と延々と、気が果てしなく遠くなるほど考え続けた。  もう考えることにも疲弊し、寝返りをうつと、ふと、部屋の隅の未完成品が目に飛び込んできた。  夏帆の趣味のジグソーパズル。でも俺では作れず、ほったらかしにしていたものだ。 『最初は2000ピースくらいがいいよ』  そのパズルを買うときに夏帆が俺に言った言葉だ。  でも夏帆に追いつきたいと、ただのくだらなく価値もない男のプライドで、俺は夏帆の提案を棄却し、5000ピースというおよそ初心者向きではないものを購入した。  結果は言わずもがなだ。  俺と同じ中途半端な未完成品。  まだ中学生という未完成な俺では、夏帆を守ることもできない。  そう思った瞬間、弾力のあるベッドからあらん限りの力で跳ね起き、俺は一心不乱にパズルに向かっていった。 『まず枠から作るんだよ』という夏帆のアドバイスを聞いていたから、それだけは出来ていた。  中の風景は所々でバラバラにわかる範囲だけ組み立てられている。  けれど、およそそれがなにを示したものなのか、いまはまだ全然わからなかった。 『これ色が少ないからむずかしいよ』  初心者は色が多い方が組み立てやすいらしい。  その方がピースを色ごとに細かく選別できるから、作業がはかどるのだそうだ。  でも俺が購入したものは、ほぼ三色にしか分けられない。  青と白と緑だ。部分的にグラデーションで濃くなったり、薄くなったりしているけれど、素人の俺にはほとんど差異があるようには見えなかった。  色に頼ることができず、ただ形を模索していく。  やみくもに、山になったピースの中から一つを掴み、順番に確かめていく。  バズルの作業を開始してからは、部活にも行かず、飯も食わず、ただただ組み立てることに没頭した。  トイレと寝ること以外はピースの正解を探し、風景を徐々に形にしていった。  なぜいままで出来なかったんだろう。   時間がかかるから、面倒だから、こじんまりした作業が苦手だから。  違う。  全部言い訳だ。  パズルにもきちんと向き合っていなかったように、俺は夏帆にもきちんと誠実に向き合おうとしていたのだろうか。  ただ離れたくない、ただ嫌だと駄々をこねるだけで、夏帆の本当の気持ちを考えようとしていたのだろうか。  夏帆が別れを決意しても、最後にキスを求めたのは、なぜなんだろう。  俺にどうして欲しかったの、夏帆。  君の心はなにを求めていたんだ。  俺は君になにをしてあければ、よかったんだ。  形を成し始めたパズルの絵が歪む。ピースを持つ手も歪む。部屋も歪み、世界が歪む。  ポタリと雫が重力に逆らえず落下する。  防水加工を施された未完成な芸術は自身に吸収することなく、俺の涙を弾いた。  まるで、甘えるな、とそう叱咤されたような気がした。  似た形を探し、一つ一つ正解を試す。ピースが合致する度に、完成が近づき喜びが溢れる。パズルが組み上がる度に、壊れていた自分が形を取り戻していく気さえした。  物を作る愉しさ。夏帆は俺にもこれを体感して欲しかったんだろうか。  一度進捗を尋ねられたとき、言葉を濁した俺を見て、夏帆はどう思ったことだろう。  それから夏帆は、俺に進捗を尋ねることは一切しなくなった。  それは夏帆の優しさだったんだろか、呆れだったんだろうか。どちらにしても俺は夏帆に甘えていたんだ。  夏帆が俺と別れたいと思うのも当然だ。  こんな、なにもかもが中途半端な俺では、遠距離恋愛を耐えることが、きっとできなかっただろう。  いずれ俺から夏帆に別れを切り出していたかもしれない。  その時、俺は夏帆を泣かせることになっていたはずだ。  夏帆はそれがわかっていたから、敢えて自分から別れを告げてくれたのではないだろうか。  俺を悪者にしないため、自分を悪者にしても最後まで夏帆は俺に、優しかったんだ。
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