さよなら、つつがない人生。

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さよなら、つつがない人生。

ゆうきの持っていた黒い手さげカバンが手からするりと滑り落ちた。意図されておらず、気が抜けてしまったかのように。 「海外の本社だぞ?誰にとっても栄転だろう」 部長が言った。本当は自分がその立場になるはずだったのに、という不満を隠しもせず。 「ずっと日本で働きたいと面接で言った君を今でも覚えてるよ。僕だってわかるさ。日本は治安がいいし、突然リストラなんてされないし、新しい言葉も覚える必要ないもんなぁ?」 部長はゆうきが心配していたことを、なぞるようにご丁寧に、全て言ってくれた。 「それは、断るってことは……」 「残念だが、できないよ。それにこの判断は日本支社の判断じゃない。イギリス本社の判断なんだ。それもあちらの出版社さんが一番大事にしている作家さんご自身が君が来ることを望んでいる」 それはつまり、断ったらクビ、という意味だった。 ゆうきはやっと、さっき落とした鞄をのろりとした動作で手に持った。 その中には、先程作家が仕上げた原稿が入っている。 「つまり……僕の仕事は、これで最後ってことです…よね」 「……海外での活躍を期待してるよ。出発は来週の月曜日だ。それまでに荷物をまとめて。土曜日は君のためにみんなで集まるから、夜8時にあそこのホテルを取ってあって……」 そんな言葉はもう、ゆうきの耳に入ってはいかない。田舎で生まれ田舎で育ち、上京するのも一世一代の決心を要した自分が、まさか外国に?それも相手は二枚舌の人間が住むイングランド。英語はそこそこしかできない、今から覚えろって!? 「……ということだから、余裕のないスケジュールになるが、よろしく」 とぼとぼと部屋から出たゆうきを、同期で、一番仲の良かった賢一が待っていた。 「悪いけど、たまたま通りかかって、聞いてた」 「そっか……栄転だってさ」 「普通はそう思うさ。俺だって正直、うらやましいもん」 「賢一の方が英語できるのに、なんで僕なんだろーね」 ゆうきはごまかすように笑いながら、自販機に小銭を入れた。 「お前の担当作家さんの引き継ぎ、俺だと思う」 「賢一だったら安心だな」 「作家さんはお前がいいと思うだろうけど」 「……しょうがないさ」 「…栄転だもんな」 「そんないちいち強調すんなよ」 賢一がわざと繰り返して「栄転栄転」と言うから、付き合いで笑う。それはやっぱりゆうきの気を和らげようとしているのはわかるんだけど、これから家族に電話をして荷物を作って全く新しい言語の国へ行くゆうきにとっては、あまりに単純すぎる励まし方だった。 4日後、ゆうきはイギリス行きの飛行機の窓の外を見ながら、不安で泣いた。
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