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 店のドアから足を踏み出した。足先から春の香りがする寒さに包まれていって、僕は羽黒町の秋のお菓子屋へ行くために西のほうへ歩き始めた。マダムの喫茶店(DEAR ROI)の扉が閉まる音は聞こえなかったけれど、振り返らない。  大人二人が並べる程度の細い石畳の裏路地を足早に歩く。通りの花屋の女の人が、通り過ぎる僕に「こんにちは」と言った。僕は足を止めずに「こんにちは」と言い返す。花屋の女の人は僕を見て微笑む。たまに売り物にならなくなってしまった綺麗な花をマダムの喫茶店に持ってきてくれる。石畳のこの路地の通りのお店は皆顔馴染みで温かいから、ここに来たばかりの時はすごく戸惑った。  一段一段が高くて、でこぼこした石の階段を上りきると、少し分囲気の違う表通りに出た。外見の趣を損なわない程度には近代化している。この通りをずっと右に行けば、そのうち店もまばらになり、小綺麗な公園が現れて、いくつかの店が見えて、例の《秋のお菓子店》へ続く坂道が始まる。遠目から見ると空に上って行くような坂だ。越えると羽黒町に着く。  僕が住んでいてマダムの店があるのは白萩町っていう町で西に行くと羽黒町。東は紫針って名前の街がある。そこは桜の名所で、僕が通っている大学も紫針にある。  僕の独断と偏見の解釈だと、羽黒町は機能性重視のなんでも揃っている街って感じで、白萩町は見栄え重視の昔の洋風の街って感じで、紫針は観光名所がいっぱいって感じだ。他にもいくつかの街があるけど、僕の行動範囲はこの三つの街で十分だった。  僕は高校を卒業してから海を越えて、この島にやってきた。  人間になりたいなら衣食住を一人でこなせる大人にならないと、旅をするならお金も必要だから、ってシズクさんが連れてきてくれた。大学に行きながら、マダムのお店で住み込みで働かせてもらっている。  僕なんかがいて良い場所なのかな、って今でもたまに思う。  僕が子どもの頃に過ごした環境と全然違うから。  大学を卒業したら、僕は旅して『あの子』を探す。  あれから十年くらい経ったけど、僕は今でも『あの子』のことを大事な人だと思っていることは変わらない。  忘れられていてもいい。それなら知り合いから始めたい。会いたい。  僕、人間にならないと。  普通にならないと『あの子』を探しに行けないから。
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