第三話:ソフトクリーム

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2  披露宴も終盤に差し掛かった頃、未来はこの日何度か目の「お色直し」と称して、式場から退席していた。その間、ひな壇に一人取り残された優斗は、大学時代の友人らに取り囲まれながら、無理やり酒でも飲まさているに違いない。友人たちの間で優斗は ──そして未来も── 最も早く結婚という人生の一大イベントを迎えた先駆者なのだ。羨望の想いに駆られた友人たちが、彼をヘベレケに酔わせようと狙っていることは容易に想像できる。  控室に入った彼女は着替える前に軽く食事を採り、楽な格好でつかの間の休憩を取っていた。彼女の背後には、艶やかな青が眩しいシルクのドレスがハンガーに掛けられており、それが本日最後のドレスである。それを着て会場に戻れば、あとは彼女の母親代わりであり、育ての親でもある香織に手紙を読み聞かせる、言ってみれば宴のクライマックスが待つだけなのだが・・・ 全くもって未来は、その手紙を泣かずに読み切る自信が持てないのであった。  「はぁ・・・ ちゃんと読めるかしら・・・」  その不安を溜息と共に吐き出した時、控室のドアを叩く遠慮がちなノックが聞こえた。  「はい」  もう、式場スタッフが来たのか。こういったドレスを一人で着ることは出来ない。必ず誰かの助けが要るのだから仕方がない。未来は「どうぞ」と付け加えた。  すると躊躇いがちにドアを開けたのは式場のスタッフではなく、見たことの無い老いた修道女だった。トゥニカという、ゆったりとしたグレーのワンピースに、ウィンプルと呼ばれる頭巾を被っている。胸にはロザリオを吊るしていて、それは正に、たまに街で見かける修道女そのものだ。  未来が目をパチクリしていると、ドアの前に立ったその修道女が言った。  「未来さんですね? プリーチャー田辺が宜しく伝えて欲しいと申しておりました」  そう言って頭を下げる修道女に、未来は慌てて立ち上がる。  「あっ、そうだったのですか。やはり牧師様はお忙しかったのですね?」  「はい。申し訳ありませんと彼が」  「そうだったんですか。こちらこそ、わざわざお呼び立てする形になってしまって申し訳ありません。どうぞこちらにお掛け下さい・・・ あの・・・」  未来が窺うような視線を送ると、彼女はその年齢に似つかわしくないシャンとした姿勢で答えた。おそらく、厳しく禁欲的な生活を半世紀以上にもわたって送ってきたのだろう。その顔に刻まれた皺の一つ一つに、過酷な修道女生活の残渣が垣間見えるようだ。  「私はシスター玲です。シスターとお呼び下されば良いかと」  「どうぞ、こちらの席にお掛け下さい、シスター」  「それではお言葉に甘えて」  シスターは自ら椅子を引き、そこに腰かけた。  「何かお飲みになりますか?」  「あっ、どうぞお構いなく。もし頂けるのでしたらお水を」  その厳しさを刻んだ顔をほころばせ、シスターは柔和な笑みを零した。  「わざわざご足労頂き、有難うございました」  コップに注いだ水を手渡しながら未来が礼を述べると、それを受け取りながらシスターは言った。  「いえいえとんでも御座いません。幸せに身を委ねる人を見るのは、私にとっても大きな喜びですから。教会で拝見しておりましたが、とても良い式でしたね。お二人の幸せな将来が目に見えるようでした」  「あっ、ご覧頂いていたのですか? 有難うございます。私たちにとっても、とても思い出深い式にすることが出来ました」  「そうですか。それは良かった」  そして両手で包み込んでいたコップを持ち上げ、その三分の一ほどを飲み下す。  「踏み込んだことをお聞きしますが・・・」シスターは再び未来の方を見る。「貴方のご両親はお見えになっていなかったようでしたが・・・」  「はい。私には両親がおりません」  「ほう、それは」シスターは目を細めた。  「式で私の親族席に座っていたのは、私が育った施設の園長です」  「施設・・・ ですか」  「はい。児童養護施設『きずな園』の高田香織園長が、私の母親代わりということになります」  寂し気な表情で未来は窓の外に目をやった。  物心が付いてから十八歳になるまで、彼女を育んだのは『きずな園』である。その間、楽しいことや悲しいことが沢山有った。友達と喧嘩したり、悪戯して園長に叱られたり。養子に貰われ、二度と逢えなくなった仲間もいる。そんな歳月の、両手に有り余るほどの暖かな想い出を反芻するかのように、彼女は窓の外に垣間見える湖を見つめた。  そして、あの式に彼女の肉親の姿は無かった。幸せの絶頂を迎えた彼女を祝福してくれる筈の、実の母の姿は無かった。ただその一点だけが、この晴れやかな日の未来に、もの悲し気な気分を味合わせるのだった。  彼女のそんな様子を見たシスターが言う。  「もし宜しければ、話をお聞きいたしますよ。今日は貴方の晴れの日です。今日から貴方は新たな一歩を踏み出すのです。施設で育った貴方が、遂に幸せを掴んだこの日こそ、過去にまつわる様々な出来事を見つめ直したり、清算したり、或いは別れを告げたりするのに絶好の日和と言えましょう。  勿論、それには及びませんと仰るのであれば、私がお聞きすることは何も有りませんが」  シスターは更に一口、コップの水を啜った。  彼女の人を包み込むような雰囲気が心地良かった。シスターの染み入るような言葉に(いだ)かれ、なんだか安らかな気分に浸った未来が訥々(とつとつ)と語り始めた。  「実は私、子供の頃に母親に捨てられたのです」  「子供の頃の私は、自分は母親と生き別れになったのだと思っていました。いつかは母が私を探し出して迎えに来てくれる、そんな儚い夢を信じておりました。しかし歳を重ね成長するに従い、世の中が見えるようになるに従い、それは間違いであることを認識するようにもなりました。  そこにどのような理由が有ったのか今となっては判りませんが、母は私を捨てたのです。私の母親たらんとする責務を、彼女は放棄したのです・・・ ただ・・・」  「ただ?」  「母が最後に残した言葉が、どうしても思い出せないのです。あの時、母は何と言ったのだろう? 母は私に何を伝えたかったのだろう? でもそれはきっと、一人で生きてゆかねばならない私に対する、最後のメッセージだったに違いないと思えるのです。それとも私を捨てねばならないことに対する、謝罪だったのかもしれません。或いは、自分が犯さざるを得ない罪に対する、贖罪の言葉だったのでしょうか。  その言葉に託された母の思いを知りたい。何とかして思い出したい。そう思い描きながらも、遂にその願いを叶えることなく、この日を迎えてしまいました。私にとってそれを知らずに過ごすことは、大切な何かを失ったまま、心の半分を無くしたまま生きるに等しいのです」  時間が止まったようだった。いや、きっと未来の時間は、母親と別れたその時から止まっているのかもしれない。シスターは少し厳かな雰囲気を醸し出しながら言った。  「貴方のお母さまが残した言葉を知りたいのですね?」  「はい」  「それはあなたが思うような言葉ではなかったかもしれませんよ」  「それでも知りたいのです」  シスターは、温くなってしまった水の残りをグィと飲み干した。  「判りました」  「???」  「私はシスター玲。貴方の失った記憶を取り戻して差し上げます。ただし、私が取り戻してあげた記憶は、死ぬまで忘れることが出来ません。それでも宜しいですか?」  「シ、シスター? いったい何を仰っているのですか?」  「貴方を捨てたお母さまの記憶と共に、一生を過ごす覚悟はお有りですか?」  シスターはこれまでとは違う力の籠った言葉を放った。その真剣な眼差しに、冗談を言っているのではないということ感じ取った未来はゆっくりと頷いた。  「私は・・・ 知りたいです! 母が私に残してくれた最後の言葉を知りたいです!」  「そうですか・・・」シスターは乗り出していた身体を引く。「これが最後の確認です。本当に記憶を戻して欲しいのですね?」  「お願いします」  「判りました」
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