第一話:蛍の炎

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3  この家の唯一の畳の間である自室に戻った清は、悔しさと惨めさの入り混じった、怒りに似た感情で拳を震わせた。  何故、あそこまで言われなければならないのか?   何故、あんな屈辱を甘んじて受けねばならぬのか?  何故、彼らは儂を(ないがし)ろに出来るのか?  何故、自分は彼らに対して何も言えないのか?  その悲しみを噛み締めるように奥歯を噛んだ清だったが、入れ歯をあつらえる金も出してもらえない彼には、噛み締めるべき歯すら無かった。そんな自分の情けない姿を想い、彼は座り込むようにして、さめざめと泣き始めた。  こんな筈じゃなかったのに。もっと幸せな老後を送れるはずだったのに。そんな風に思えば思う程、止めどなく涙が溢れ出た。  勇一が結婚した頃は、郁恵さんも優しかった。初孫の由香が産まれる時は、勇一と一緒になって分娩室の前で夜を明かした。手狭になった借家を引き払い、退職金をはたいて建てたこの一戸建て。その庭先には元々、美智子の為の家庭菜園が有った筈なのに。それなのに、今では後付けの物置が・・・。  美智子?  清は泣き腫らした目で顔を上げると、部屋の片隅の仏壇に目をやった。そこには五年前に癌で亡くなった妻、美智子の遺影と、戦時中に空襲で亡くした妹、和子の古ぼけたモノクロ写真が並んでいた。  美智子・・・。儂は何の為に生きてきたのだろう? こんな人生に何の意味が有ると言うのか? 一生懸命働いて、その結果手に入れたものが、こんな惨めな終焉なのか? どうしてお前は、儂をおいて先に逝ってしまったんだ? お前が儂を見取る筈だったじゃないか。  和子・・・。あの時、お兄ちゃんも一緒に燃えてしまえばよかったな。防空壕から出なければ良かったんだ。そうすれば、お前にだけ寂しい想いをさせることも無かったろうに。済まなかったな。お兄ちゃんだけ生き残って、本当に済まなかったな。  清は袖で乱暴に涙を拭うとそっと立ち上がり、音がしないように襖を開けて廊下に出た。リビングのすりガラスを通して、三人の陰が揺れている。野球中継は終わっているのか、勇一と郁恵が軽薄なバラエティショーを見ながら馬鹿笑いしている声が聞こえた。由香は相変わらずスマホに夢中なのか、スウェットの派手な色は透けて見えても、彼女の声は聞こえなかった。  その前を静かに通り過ぎ、清は外に出た。  見上げれば、月が意外なほどに大きく、また明るく輝いていた。美智子と二人で、近所の公園に夜桜見物に行った時も、ちょうどこんな月夜だった。夜はまだ肌寒いからと、美智子が持たせようとした上着を意地を張って手に取らず、結局、風邪をひいて寝込んでしまたっけ。そんな頑固な清を、呆れたような顔をしながら看病してくれた美智子の顔が浮かぶ。しかし美智子は呆れながらも、その実、楽しそうにしていたことを思い出した。  「フッ」と笑った清はウキウキするような気分に囚われ、そのままフラフラと通りへと踏み出した。  月に誘われるように、思うままに足を運ぶ。子供の頃に見た月と、それは寸分違わぬ美しさだ。見慣れたはずの住宅街の街並みも、なんだか楽し気に思えるではないか。そうだ、和子と一緒に手を繋いで、夜の畦道を歩いたあの月夜も同じだった。二人は蛍を追って、何処までも歩き続けたのだ。  歩きながら拾った棒で用水路脇の草むらを突くと、そこからメラメラと立ち上る炎のように、蛍が飛び立っていった様を思い出す。清は生まれてこの方、あれほどまでに美しい光景を見たことが無かった。  そして二人で蛍の炎に身を委ねていると、その揺らめく光の粒を切り裂くかのように、真っ直ぐな光が斜め下から横切り始めた。その人工的で直線的な光は、徐々にこちらに近づいてくるようだ。「何だろう?」二人が顔を見合わせた時、耳障りなサイレンが鳴り響いた。  「空襲警報ーーーっ! 空襲警報ーーーっ!」  何処かの誰かが家から飛び出してきて、大声でまくしたて始めた。それを機に、街中がハチの巣をつついたような騒ぎに見舞われ、各家から灯が消えた。爆撃の目標にされない為の灯火管制だ。「ゴォォォォ・・・」という不気味な音を立てるB-29の編隊三機が、清たちの街を襲ったのだ。  この頃になると、敵の爆撃機は護衛の戦闘機を引き連れることも無く、思い立った時に思い立った街を、思い付きのように爆撃することが出来るようになっていた。その目標は軍事施設などではなく ──この頃の日本に、まだ機能しているまともな軍事施設など有ったのだろうか?── 非戦闘員である一般市民だった。そう、日本の敗戦ももう時間の問題だったのだ。  清は和子の手を握ったまま、一目散に駆け出した。母ちゃんが一人で家にいる。放っておくわけにはいかない。清は駆けている途中で見つけた防空壕に和子を押し込むと、直ぐに踵を返す。  その時、和子が声を上げた。  「兄ちゃん!」  清は立ち止まり、振り返りながら言う。  「大丈夫だ。直ぐに母ちゃんを連れて来る。ここで待ってろ。判ったな!?」  和子は知らない人たちの中に一人でとり残される恐怖と戦いながら、それでも健気に兄の言葉に頷いた。それを見た清は、妹を励ますように微かな笑みを湛えた顔で大きく頷いた。  そして清が防空壕から飛び出した刹那、B-29の一機がばら撒いた焼夷弾の一つが、防空壕の中に吸い込まれていった。清はその瞬間をスローモーションのように見つめ続けたのだった。  「和子ぉぉぉぉーーーーーっ!」  清の声は爆音にかき消され、ほぼ同時に届いた衝撃波と共に、彼の身体は木の葉のように吹き飛んだ。
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