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「ところでおめえさん、ずいぶん匂う」 「あなたがたにはトンとご縁のないことですがね、外の世界は灼熱なのです。汗くらい許してください。」 「いいや、ケモノの匂いが強いってことさ」 「……ケモノ?寝不足で、ちょっといろいろ緩んでいるからでしょう」 「そりゃいかん。あんまり緩むと、お耳としっぽが出ちまうよ」 「そうなる前に、これから帰って眠ります」 「すぐ眠れるのかい?」 「……? 眠れますけど」 「お前のケモノ臭さは、お前自身のメスの匂いなり」 「何を言うんです」 「寝不足で疲れるときほど、男が欲しくなるじゃろう」 ケケケ、と黒シャムが不気味に笑い、長いしっぽをクロの喉もとにふわりと巻きつけた。 「お前はよう、色気が無え。けどときどきツンと"匂う"何かに、強烈に情を掻き立てられるのさ。シロ坊のようにわかりやすく発情しとるウツケよりも、おとなしそうな顔をしながら餓えとるモンの方が、どうしてかそそられる」 しっぽの先で耳たぶをこちょこちょとくすぐられ、思わず肩をすくめた。 「別に餓えてません」 「そうかい。お前もそれなりに年寄りだからな」 「……とりあえず、七日、お伝えしましたからね」 「もう行くのかい」 「ええ」 クロがソファーから立ち上がる。 「よう眠りなんし」 ゲーテが伸びながらあくびをして、ヒョイとキャットタワーに登っていった。その様子に、何人かの客がさっそくスマホを向けて撮影する。店で買えるおやつのササミをちらつかせて気を引こうとする客もいたが、カンバンのゲーテは一瞥もくれず、いちばんてっぺんの穴ぐらの中へ潜り込んで行った。 滞在時間は十分ちょっと。それでも一時間分の料金を支払って出て行く。店員が訝るのもよくわかる。毎度短い時間だけやってきては、誰にもなつかないゲーテを独り占めしていく謎の男。 再び炎熱地獄の雑踏にまぎれ込み、すぐに地下通路の入り口に避難して涼しい地下鉄に乗り込んだ。暑さに弱くなったのではない、この百年でこの都市の気温はバカみたいに上昇したのだ。 二駅目で下車して、歩いて三分のマンションに帰ってくる。このまま一気に明日の朝まで眠れそうだが、今寝てもどうせ宵の口には目覚めてしまうのだろう。それなら夜まで寝るのをガマンして、きちんと明日の朝に目覚めたいものだ。エレベーターで六階に上がり、ようやく自宅に戻ってこられた。扉を開けた瞬間、冷気が漏れ出してくる。 「ただいま」 「おかえり。死人みたいな顔だ」 大和が出迎える。 「半分死人さ」 「デキる男はつらいな」 「社長が何でも僕らに任せすぎだ。……シャワー浴びてくる。すべてが気持ち悪い」 そう言うと大和が眉を下げて笑い、「着替えとタオル置いとくな」と言った。 ぬるめのシャワーを頭からかぶりながら、ゲーテが言った"ツンと匂う何か"という言葉を思い起こす。それは無論シャワーの湯で洗い流せるものではない。あの男はかつて女郎部屋で半ノラで飼われてたせいか、まるで遊女のごとくいやなところが鋭い。 自分もかつては親代わりの社長に付き従い、子どもの頃から明治、大正、昭和、そして現在に至るまで、酒場や性風俗産業の渦中を見ながら育ってきたわけだが、昔っからどうにも妓楼ではたらく女は恐ろしかった。やさしくていい匂いの姐さんたちは、だいたい請け出されるかとっとと自立していなくなる。ぜんぜん売れてなくたって、きれいじゃなくたって、一途なところがウケて結局は幸せになっていく。しかもこれまた、地味で堅い金持ちによく好かれるのだ。 しかしそれとは反対に、いろんな男を引き寄せて長く売れる、男好きする姐さんというのが、おそらくゲーテのいうところのツンとした匂いをぷんぷんと漂わせる女たちだ。 頭がよくて、機転がきいて、鼻も利く。粋な話し方をして、髪も服も化粧も話題も、いつも最先端だ。だから派手に金を使うタイプの男によくモテた。 けれどクロはその手の人が怖かった。ふつうの人間の女として見たことはない。なにか自分たちとはまた違う種族のあやかしのケモノにしか思えなかった。 だが社長はそういう女の方が好きなので、彼のやる店にはそういうのばかりが身を置いて、静かでやさしい地味な女は、あまり長く居ずにちゃっちゃとカタギの世界に羽ばたいていってしまう。 時代は流れ、女たちのよそおいやしゃべる言葉が変わったが、本質は変わらないように思う。黒服として働く店でも、人気の上位にいるのは皆独特な色香を纏った者たちだ。顔立ちも髪型もドレスも千差万別だが、どうにもみんな、眼は同じ。底知れぬ欲望を秘めている。だから一様にケモノの目つきになる。 しかしゲーテが自分から嗅ぎ取った匂いというのは、そういう野心や上昇の気持ちの絡まったものではない。この肉体から発せられる"餓え"の匂い。知ってしまって覚えてしまうと、クセになってもう戻れないし、振り払えない。子どもの頃から長く女たちを見てきて、クロはきっとそれらに感化されているのだと思った。
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