第3話

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第3話

 帰宅したのは午後4時。誰もいない家はすごく静かだ。すぐにジーンズとお気に入りのトレーナーに着替えた。   *  夕方6時半になる頃。リビングの窓から庭を見た。 「ブランコに乗ってみようかな……」  玄関を出て、庭に向かいながら、現れるかもしれないあの人を思って少し緊張した。ブランコに乗って空を見上げる。ゆらゆらとブランコを前後に少し揺らしてみた。  ――ザッ ザッ ザッ ザッ  「来た!」  視界の右側の芝生の上に、あのピンクのスカート。あの高貴な何とも言えない空気は、私の緊張をほぐした。  やっぱり6時半。ブランコを揺らすと来るのかな?  その人は、私の斜め前に立ち、空を見上げた。私は、また彼女のエネルギーにも、その雰囲気にも、その薄い白い光にも見とれた。  やっぱり半透明だ。  その人は柔らかい笑顔で私の目を見た。どこにも「疑い」と「不安」がない。今まで見てきた大人とは違う。私はその薄い水色の瞳をじーっと見つめた。見つめれば見つめるほど、優しいエネルギーが、その場に増していくのがわかった。その人は花のように微笑みながら言った。 『清花……今日頑張って逃げたね』  え? 「頑張る」と「逃げる」は逆の意味じゃないの? と一瞬混乱したけれど、すぐに駆け下りたあの坂道と、走り終えたあとの清々しさを思い出した。 『逃げるのよ』  全身から「知っている」という強い確信のエネルギーを流しながら、当たり前、というように言った。  思わず、「逃げちゃいけないんじゃないの?」と問いかけると、『逃げなさい』とはっきりと放たれた言葉は、私の中の何かを切った。切られたところから、今まで聞いてきた言葉たちが、わあっと沸き上がた。  “頑張れ! 成長しろ! 強くなれ!”って、みんな言ってたよね?と。  唖然としていると、突然その人はしゃがんで芝生を撫でた。芝生がリアルに動く。芝生が喜んだようにも見えた。私は、ごくっとつばを飲み込んだ。  この人は、芝生とも話すんだろうか?   やっぱり、異世界からの魔女的な?  その人は手を止めて、振り向いてまっすぐに綺麗などこまでも見透かすような目で私を見た。また、目が合う。すると、私の体は動けなくなるように感じる。何か、重い。 『ん?まあ……そうね……』  微笑みながら彼女は言う、その声が、「あなたと話せて嬉しいわ」っていう音だった。 「もしかして、私の心の声、聞こえるの?」 『聞こえるわよ。だって星の声も聞こえるもの』 「あっ、そっか……」    突然、高貴な魔女は空気を切り替えた。丸い優しい空気から、辺りが凛とした空気になった。そして、優しいんだけど、苦しさをついてくる言葉を並べた。 『ママが憎い?』 「え?」 『ママが怖い?』   「え?」 『ママはあなたが思っているより知らないの。何も知らないの』  海のような深い声。立て続けに聞いたことがない言葉。言葉たちは生きているようだった。泳ぐようにどんどん脳の奥に入ってくる。でも私の思考は停止していた。ショックを受けたんだと思う。事実をあんまりはっきり言われたから……。  凛とした声で、その人は続けた。 『ねぇ。清花』 「はい」 『ママは、人間だ。ママじゃないのよ。こうであるべきママではないの』 「あっ!」  瞬間、心のピントが合った。次から次へとわだかまりが溶けていく。その言葉たちが、また脳の奥に勝手に入り込んで動く。あちこちの引き出しを開けて整理し始めた。  “自分の中に理想のママがいて。そのママじゃないから苛立ってたんだ。でもきっとママだってそうだ。私は理想の子じゃないんだよ。そして私だって、もっとパパに格好良くいてほしいとか。パパだって、私にもっと元気にいてほしいとか。理想が私を苦しめてるんだ。こうでなきゃ、こうしなきゃって。でもそうできなくて、そうじゃない自分も、相手を責めて。みんな弱い人間なんだ。そんな当たり前の事、なんで気づかなかったんだろう”    たった今、許すということが大事だ、と解りかけた気がしたのに、また自分を責めそうになった。彼女は私に微笑みながら、「大丈夫だ」という確信を持って、こう言った。 『清花。見てごらん』  その確信が私の心に触れて、私自身も自分の事を大丈夫だ、と思えた時、目の前に、その人の半透明の重ねられた手の平が差し出された。その上には、半透明の一輪の白い光る花……。  私は吸い込まれるようにその花を見た。  優しい緑色の細い茎には1枚の葉。その先に大きいすずらんのような白い花――ふっくらとまるい形のその花は上を向いていた。花びらの中からは柔らかい光――キャンドルのようなオレンジ色の光がもれていた。  私は長い間、音のない世界にいた。私には、その花しか見えなかった。 「綺麗……」  そう自然と口から言葉が出た時、高貴な魔女は、私を満足げに見た。 『じゃあ。大丈夫。あなたは成功者よ』  誰にも邪魔させない、勝ち負けなんか、何にも関係ない、優しい強さがこもっていた。強かった。生まれて初めて経験する、心の奥に染み込む言葉のエネルギーにまだ戸惑っている。思考が働かない。またポカーンと口を開けて、彼女の顔を見た。 『花を見て綺麗。月を見て綺麗。星を見て綺麗。そう思えたらあなたは成功者。頑張らなくてもいいのよ。ただやってみるの』 「え?」 『美味しいって思えて、嬉しいって思えて、笑顔でいれたら、あなたはもう成功者なの』 「え?」  わからない。今まで聞いてきたことと違う。  私の思考は停止したまま崩れていった。それと共に、高貴な魔女は笑顔のまま、すっと消えていった。彼女がいなくなった庭は、まるで何もかもなくなってしまったかのように静かだった。でも、なんとも言えない喜びが足の先からぐんぐん上がってくる。 「私……やっぱり魔女に出会った!」 車のヘッドライトが駐車場を照らした。 「もう7時だ。パパだ……」  また急いで隠れるように玄関に入って、ふてくされたい、という感情と衝動が湧いた。本当の自分を隠して、それでも理解して欲しいという甘えだ。その衝動に「待て」をすることができた。 「パパだって、私だって人間だ。理解できないし、わからないことがあるのは当たり前。だから、きっと許し合いっていうのがあるんだ」  私はブランコからおりて、玄関に向かって堂々とゆっくりと歩いた。パパが車から降りてくる。仕事カバン、お弁当が3つ入ったビニール袋を持って……。  私は玄関のドアを開け、パパが入れるように手でしっかりとドアを押さえた。  まだ恥ずかしい。でもそれでいい。人間だから。  私は、下を向いて立って待っていた。パパは、私を横目で見て玄関に入りながら、嬉しそうに「ただいまっ」と言った。
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