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第4話
パパの後ろから猫のように静かにあとをつけるようにして、リビングに入った。
今まで私が取ってきた態度がみんな、ただ私が勝手に作った理想とパパが違うから苛立ってしていたものだ、と分かった、とんでもないことをしてしまったと思った。
心の中では「ごめんなさい。ごめんなさい。本当はパパが大好きなの」って言っている。でも、まだ恥ずかしさが心を覆って邪魔をして、体がいうことをきかない。そんな自分を感じると、また、わけのわからない怒りが湧いてくる。でもすぐに、さっき庭で言われた言葉たちが、私の脳内をもう1度駆け巡った。
『逃げなさい。頑張らなくていい。ただやってみる』
カシャ……カシャカシャカシャ。
パパがいつものように、ダイニングテーブルにお弁当を置いている。パパの背中を見ながら、逃げることを考えてみた。急に楽になった。体が動いた。
「パパ。私、それ2階で食べるね」
パパが驚いて振り向いた。2週間ぶりに私が話しかけたから、目を丸くしている。そのパパの顔を見て、私も少し自分に驚いた。パパは少しの間のあと「あ。うん」って言って頷いた。
私は、パパに2週間ぶりに近づいて、手を伸ばしてお弁当を1つ取った。ゆっくり歩いて、リビングから廊下に。階段をゆっくり上がって2階の自分の部屋に入った。気を使わないで、ドアも普通に閉めた。
部屋に入って、お弁当を手に持ったまま、私はドアの前で立ち尽くしていた。何かはっきりと、自分の事を客観的に見れた気がしたからだと思う。
「私は、一緒にパパと食べなきゃとも思っていて、仲良く食べたいとも思っていて、パパに喜んでもらえるいい子にならなきゃって思っていて、パパが大好きなんだけど、大嫌いになって……。わけわかんなくなってた。空回りっていうやつかもしれない……」
そう冷静に気持ちを、行動を分析して、言葉にしてから、ベッドに座って、一人でお弁当を食べた。その日はもう、罪悪感に襲われなかった。ダメな自分を受け入れることができていた。
*
ゴミ箱には、空になったお弁当と割り箸。私はベッドの上で、高貴な魔女と、光る花、あの庭の空気を思い出していた。
「頑張らなくていい。逃げなさいって。あの高貴な魔女が、もしも、本当に本当に私のために異世界から会いにきてくれたとしたら、それはすごいことだ。私のことを大丈夫って言ってくれた。綺麗って思えたら、成功者だって……」
目を閉じて、あの光る花を思い出す。何かが収まっていった。
「わかった。部活から一番逃げたい」
*
中学でテニス部に入った。顧問の先生が4月は「私はテニスの経験がないのですけど、一緒に楽しくやろうね」なんて入部を勧めたくせに、5月になったら急に怒鳴るようになった。ろくにテニスもできない顧問が、やたらと怒鳴るだけで説明できずにいるのに、それを指導だと捉えろ、という態度に腹がたった。
理不尽。
その顧問の怒鳴り声に何の反応もせずに、だらだらしている先輩も嫌。だけど、その怒鳴り声にびびっている友達を見るのも嫌。
苛立った。
小学生の時は、週3回バレエのお稽古に通っていた。バレエの先生はとっても優しくて、教えるのが上手だった。「違う」という時は、可愛い声で「NO! NO! NO!」と言ってから、具体的に体の動かし方を見せ、優しく指示してくれた。
「大きい違いに戸惑ったんだ……。だから、きっとなんとなく自分が浮いてるように感じたのかもしれない」
パパとママにも頭にきた。
「好きなようにしたらいい」と突き放しといて、学校に行かなければ結局怒る。だったらちゃんと話し合えばいい。急に怒ったり、急に優しくしたりして、私をなんとか手綱を引いてコントロールしようとする。
嫌悪感。
「だけど、パパとママは、私がどれだけ部活でどういうふうに嫌な思いをしたかなんて、知らないんだ。知らなかったんだ。思ったよりも知らなかったんだ。どれだけ心に負荷がかかってたかなんて、自分でもわからなかったじゃない。パパとママはなおさらだ。きっと、想像もできなかったのかもしれない……」
やっと何をしたいのか分かった。“しなければいけない”を一旦外して、自分の本音を真っ直ぐに見れて、解決思考が働いた。
「逃げる。部活をやめよう。その代わり、週3回のバレエをまた始めよう。いいかもしれない」
バレエのお稽古で踊ってると、なんだか楽しくて笑いがこみ上げるような瞬間があった。それに、体の芯に集中することが好きだった。
「頑張って逃げてみよう。部活をやめたほうが、私は成功者になれる。綺麗……。そうバレエのお稽古のあとは空を見て感じてた」
心の整理が、「逃げる」そう考えただけでなぜか容易に出来た。
*
夜9時。自分の部屋を出て廊下に立ち、ふぅ~っ、と息を吐いた。まるでバレエの発表会の前みたいに緊張する。階段を下りていくと、心臓がバクバクし始めた。
「ママだって人間だから。ママだって人間だから」
小さく小さく繰り返し呟いた。だって、説明したとしても理解されないかもしれない。理解されないという怖さを、「人間だから」と繰り返し繰り返し呪文のように唱えることで壊していく。一段一段ゆっくりと階段を下りていった。
リビングに入る。パパはいない。キッチンから音がする。少しだけキッチンにいるママの様子を見た。パパのおつまみを用意していた。ママにゆっくり近づいて行く。
「ママ……」
「ん?」
「あの……」
ママは振り返らずに、私が話すよりも先に質問した。
「今日学校どうだった?」
「え……?」
ママだって人間。ママだって人間。
湧き上がるイラつきに呪文を唱える。感情が収まって、言いたいことが頭にきちんと出てきた。
「うんとね。今日はね。緊張したから保健室に行きました」
「そう」
ほんの少しだけ、ママの「そう」がいつもより優しかった。
「ママ」
「ん?」
ママだって人間。ママだって人間。
「あの。話があるの」
振り返ったママは、急に大人の雰囲気になった。そして、私を真面目な顔で見て、少し低い声で返事をした。
「何? 座って話す?」
「あ……えっと」
「じゃあ。どうぞ座ってください」
ママはダイニングの椅子を引いて、ここへどうぞ、と手の平で合図した。それが、これからきちんと話を聞きます、という無言のメッセージになって私に届いて、ほっとした。心のどっかが緩んだ。
私が椅子に座ると、ママは向かい側の椅子を引いて座った。ママは緊張してるみたいだった。でも優しい笑顔をしようとしているようにも見える。そんなママにふと甘えたくなった。「もう部活なんて行きたくない! ヤーメル!」って言いたくなった。そんな甘えに自分で「待て」をした。
ママだって人間。何も知らない。何も知らない。丁寧に説明するんだ。
「あのね。私はバレエが好きだったじゃないですか?」
ママは頷きながら、うん、と言った。
「バレエの先生は優しくて、教えるのが上手だったじゃないですか?」
「そうね。いい先生だったわね」
もう私はママの目を見て話を続けられなくなった。だから視線を落として、テーブルの木目を見ながら続けた。
「それに比べると、テニス部の顧問はびっくりするほどなにかと怒鳴るの。そして、私はそれが理不尽だと思う」
「……」
「私はそれだけで苦しいの」
涙声でそう言った。本音を言えば言うほど涙が出そうになるのは、どうしてなんだろう、と小さな頃から思っていたけれど、やっぱり鼻の奥がツーンとしてきて目頭が熱い。ママは、私が下を向いて涙をこらえているのを分かっているのか、黙っている。ほんの少し顔を上げて、ママの表情を確認してみた。ママはぼんやりと私を見ていた。
やっぱり、ママが何を考えているのかわからなくて怖い。そう思って、私は、視線をまた下に落とした。次に……。次に何て説明したらいいのか。そうだ。あの花。綺麗って思えたら成功者。
少し大きな声が出た。
「あのね。バレエをやったあとは気持ちが良かった。いつもお稽古の後に夕日が見えてた。空が綺麗で、清々しいって毎回思ってたの。でも。はぁ~っ……」
深い溜息を自然とついた。
「でも……テニス部の練習の後は、いつも何もかも嫌になった」
「うん」
顔を上げてママの顔を見る。ママの鼻が少し赤くなっていた。私は、はっきりと大きな声でできるだけ気持ちを込めて言った。ママの目を見て、まっすぐにちゃんと。
「私は、テニス部をやめて、週3回またバレエをしたいんです!」
そう言うとママは私を見たまま動かなかった。丁度、パパがお風呂から上がってきて、タオルで頭を拭きながら、私とママがダイニングテーブルを挟んで向き合っているのを横目で見ている。微妙な空気の中、私はママの目をちゃんと見つめ続けた。伝われって、思いながら。
わかっている。そんなことして、いじめられないか、とかそういうことでしょ?ちゃんと、もっと説明するんだ。ママは思ったよりも知らないんだから……。
ママは、私から視線を外して、テーブルをじっと見て、何にもないそのテーブルの上をなぜか両手の手の平でさすった。ママは、泣きそうになるのをこらえているようだった。そして小さく優しく言った。
「いいかもね……」
予想外のママの、いいかもね、に反応が出来なかった。ママは笑顔で立ち上がって振り向いて、パパに声をかけた。
「パパ。いいよね。清花。よく考えたみたいよ。部活やめてもいいね?」
パパは困ったように頭をタオルで拭きながら、「え?あ。う~ん。まあ……でも部活で嫌な思いをするのも勉強だぞ」と答えた。
パパも人間。思ったよりも知らない。知らない。知らないんだ。私の心の負荷なんてわからない。ちゃんと説明しないと。
私はすくっと立ち上がって、はっきりと伝えようと大きな声を出した。
「パパ! 私は理不尽が許せません!」
私の言葉にパパは固まってから、「私は理不尽が許せません……」ってなぜかリピートした。そして噴き出した。ママも笑った。二人が突然笑い出したから、びっくりして目を丸くすると、二人は、その私の顔を見て、また笑った。
「なんか……急に大人になったな。寂しいなぁ~」
とパパは言った後、柔らかい表情をして、「清花の好きにしたらいい」と付け加えた。パパの「好きにしたらいい」が、本当に「好きなようにしていいよ」という柔らかいメッセージとして私の心にちゃんと届いた。
ママはにっこり笑って、「そうね。そうしましょう。じゃあ。ママからちゃんとバレエの先生に連絡もするし、部活の先生にも連絡するからね!」と明るく言った。
私は、その時のリビングの空気が、あの高貴な魔女と一緒にいた庭の雰囲気に似ている、と思った。
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