0人が本棚に入れています
本棚に追加
第5話
パパとママに話をしたその翌週から、私は、毎日ちゃんと学校に通えるようになった。といっても、まだ教室には行けないから保健室登校だけれど……。
毎朝、登校する時は一人で道を歩いていると少し緊張する。だから、空とか花とか見て綺麗って思えたら、「私は成功者」って小声で何回か言う。学校の廊下を歩いていると、普通に教室でお勉強出来ない自分を責めそうになる。すぐに「逃げなさい」「人間だ」と心で繰り返すと、ダメな自分を許してあげれる。そしてまた、勇気が少し湧く。
保健室でお勉強している間も不安になる。ほんの少しだけお話しできる子もいるんだけど、みんな暗い。勉強しながら、「悩みはいつか消える」って心の中で繰り返す。みんなの悩みもいつか消えたらいいなって思いながら。給食を食べて、美味しいと思えたら、それで自分を良しとする。最後のチャイムが鳴ったら一人で帰る。また空を見て、鳥を見て、「綺麗」って思えたらそれで「成功者」って思う。
そんな風に学校に行って……バレエに週に3回通って……と、日々を繰り返していた。その間、高貴な魔女は現れなかった。毎晩、ブランコに乗って、揺らしてみるけれど、現れなかった。
高貴な魔女との出会いは、誰にも言ってない。誰かに言ってしまったら、保健室登校とバレエのレッスンに行く、小さな勇気さえ、なくなってしまうような気がして、怖い。
*
7月。夜遅く、階段を降りていたら、パパとママの会話が聞こえてきた。
「なあ、ママ。この前、清花、理不尽は許せません! って言っただろ?」
「うん」
「俺もそうだった。それですっかり大人嫌いになってさ。勉強しなかった」
「ふふふ」
「清花は、俺に似てるんだな」
「ふふふ」
「今でも、俺、理不尽、嫌いだもん。八方美人になれないんだよな。だから昇進しねえんだわ」
「ははは。じゃあ、清花も昇進しないわね。あの子に合ってる仕事って何かしらね?」
「うーん。理不尽だらけだけどな。どの世界も……」
「うん」
最後のママの「うん」は寂しそうで、不安そうで、何とも言えない感じで、可哀想だと思った。
大人も理不尽を見ながら社会で働いている。あの人は、悩みは消えるって言っていたけど。パパもママも悩んでいる。
私は、薄暗い階段に座って、しばらく考えてみた。答えは見つからなかったけれど。とにかく、パパとママの悩みも消えたらいいな、とは思った。
*
バレエのお稽古の後は、ママが迎えに来てくれる。モスバーガーにも寄ってくれる。フライドポテトとオレンジジュースを飲みながら、私達は、カウンター席に座って話す。
「ねえ。どう? 保健室登校は?」
「え? ……うーん。まあ」
店の天井を見ながら、目を左右に動かして、どう返事をしようか言葉を探す私を、ママは頬杖をつきながら見ている。
「えっと、えっと……。教室に本当は行きたいよ。だけど、今のところ保健室に行って、少しだけ先生と話したり、同じような悩みを持ってる子と一緒にいれるのでいいかな?それにバレエすると、少しすっきりするしね」
「そっか~……」
ママは、私が心の声を言葉にするまで、待ってくれるようになった。嬉しい。
*
1学期の終業式を終えたその日の夜。
夏休みが始まった、と思ったら、また精神的にぐらつくような感覚が戻った。不安。ベッドの中に入って、天井を見つめながら沢山沢山考えた。
「確かに、パパとママとは話せるようになった。人間だから、理想とは違ったり、できないこともあるって思ったり、逃げるって思えば、空回りしなくて、距離もちゃんと意識して取れるから、逆に上手くいくみたい。でも友達とは、社会では、頑張って、関わって、立ち向かわなくてはいけないよね? パパもママも、どこの世界にも、理不尽はあるって言ってたし。理不尽から逃げられないよね? 大人になっても悩みが消えてない。異世界って……ここと違うのかもしれない」
*
8月。夏休み。夕方6時半。
虫除けスプレーを足にかけてから、庭に出てブランコに乗る。ブランコを揺らしながら、頭を一生懸命整理する。
「小学校の時は、この庭でみんなで遊んだのに……。誰からも連絡も来ないし、どうしたの? なんて声かけてくれる人もいない。9月から。2学期からは、やっぱり教室に行って授業を受けたい。先生が、2学期から勉強についていけない人多いって言っていたし。でも、私が教室に入ったら、みんなどう思うんだろう? 私の事なんて忘れてる?」
沢山沢山考える。毎日毎日あの人に来て欲しくて、悩んでいることを、ブランコを揺らしながら口に出してみる。でも、高貴な魔女は現れなかった。
*
夏休みが、あと1週間ほどで終わるという頃。
自分の部屋で、夏休みの宿題のワークを終わらせた。クーラーの効いた部屋で、勉強している自分。それだけで、感謝しなければいけないのだろうけれど……。机の上の夏休みの宿題の山を、ぼーっと見ていた。右側に終わらせた課題。左側にまだ終わってない課題。左側に残っているのは丸まってる画用紙だけだ。
「もうあとは絵だけか。何を描こうかな」
手を伸ばして画用紙を取ろうとしたら、柔らかく光る、あの花を思い出した。体に緊張が走る。期待が裏切られる予感で一杯だ。
異世界の高貴な魔女? あの人だって、理不尽だ! 私が悩んでいるのに来ないなんて! もう逃げて楽になること考えて、頑張らないで、やってみるだけでいいの? 花が綺麗……もう私は成功者? それじゃあ、やっぱりダメだよ。異世界ではいいかもれないけど、ここはダメ。パパの言うとおりだ。嫌なことも勉強なんだよ。強くなれ! そうみんな言うじゃない。乗り越えろって。あの人の見せてくれた、あの異世界の花は光ってた。 ここでは下を向いているすずらんのような花は、上を向いていた……。
「そうか……。こことは反対なのかもしれない」
画用紙をそっと取って、それでもやっぱり私は、あの花の絵を描こうと思って、鉛筆を握った。
*
登校日、前日。夕方6時半。
どこにも視点を合わせず、ブランコに乗っていた。もう空なんて見れない。
「ふぅ~。明日は行かなきゃ……」
――ザッ ザッ ザッ ザッ
「来た!」
嬉しさがこみ上げた。頼りにしている誰かと出会える喜び。また何かヒントをくれたら、前進できるかもしれないという期待。そして……怒り。体中で感じた怒りは初めてだった。
「あれから、雨の日以外は、バレエのある日だってギリギリまで待っていた! 毎日毎日6時半から7時までずっと待ってたのに! なんで来なかったの! それに雨の日だって、ちゃんと庭を見てたの! それに、それに……」
魔女は、私の真正面に立って、あの柔らかい笑顔で私の顔を覗き込んだ。嬉しさと怒りが涙になって溢れ、頬をつたってポタポタとスカートの上に落ちていく。
「あなたは異世界の人だ。悩みなんてないんだよ! ここは、色々あるから!」
『あらぁ? 清花、怒ってるの?』
「何? 呑気にあらぁ? って。だって理不尽よ! 私が悩んでいるの知ってるでしょ! なんで来ないの! パパとママは知らないんだ! だからしょうがない! でも、あなたは知っているでしょ!」
柔らかい笑顔で私を見続けている魔女の愛とか優しさに、前のように、心を委ねることができなかった。あの、強い優しさだけある世界に、入れなかった。
「私は、もう、なんだかすでに世の中から置いてかれてる気がしてるの! 今、強くなれなかったらもうダメかもしれないって、そう思ってるの!
答えが欲しいんだよ!」
私は信頼を込めて高貴な魔女を睨んだ。魔女は目の前から消えた。そして、後ろから私を抱きしめた。私を白い透明な袖が私の前にある。初めて心ごと抱きしめられた、と思った。心臓の鼓動は感じない。だけどあたたかさはある。
「うっ……うっ……うっ……」
大声を出して泣きそうになるのを必死にこらえた。
『悩みはいつか消える』
「無責任!」
『あなたは何も知らないの』
「無責任!」
『星があなたに語っています』
「何を語っているの? 私には聞こえないんだよ!」
『あなたは大丈夫』
「大丈夫じゃないからっ!」
『清花』
「……」
『清花』
「あっ……」
2回目に名前を呼ばれた時に、あっけなく怒りが消えていった。本当に嘘のよう。それは本当に魔法のようだった。涙だけはハラハラと流れ落ちているのに、感情の波は収まっていた。私は、ちゃんと高貴な魔女――彼女にも伝えようと思った。何を悩んでいるのか、言葉にしようと思った。
「明日、教室に行こうと思っているの」
『それで?』
「クラスの子達の反応が怖いの」
『それで?』
「え? だって、無視されるかもしれないよ。それに、なんか悪口言われるかもしれないよ。それに……」
『関わろうとしない』
「え?」
『無理に関わろうとしなくていいの』
「……」
『関係っていうのはね。生まれるものなの』
「生まれる?」
魔女は私の前に現れ、両手を広げて、微笑みながらもう一度言った。
『生まれるものなのよ』
その表情から、私が彼女を睨んだことも、怒って失礼な態度を取ったことも、もう消えているんだと、すぐにわかった。
私が怒っていても、それは彼女の中ではなんでもないことだったんだ。どうでもいいことだったんだ。それは、あってないようなものだったんだ。
『生まれるものなの。そして消えていくもの。繰り返すんだ』
そう優しく、だけど凛とした声で言いながら、両手を差し出して、またあの光る花を乗せて見せてくれた。涙でぼやけて見える。でも……。
「綺麗……」
『じゃあ大丈夫。清花の中には愛がある』
「あい……?」
顔を上げると同時に、魔女は消えた。誰もいない庭。だけど寂しくなかった。私の心には、あの花が1輪だけ咲いたくらいの明るさがあった。
「生まれる。そして消えていく。繰り返す。よくわからない……」
だけど、お腹の底の方で「そうだ」と思えた。
「そっか……ふふふ……」
ママが庭にいる私を、心配そうにリビングの窓から見ていた。
「ママ。大丈夫。行ってみるから。ダメでも私、成功者。私、もう1度やってみる。頑張らないで、ただやってみるから。ごめんね。生まれるを、信じてみる」
小さな声でママに約束して、涙をしっかり拭いて、夜空を見上げた。星たちはちゃんと暗闇の中で輝いている。
「よし! 綺麗だ! 私は大丈夫!」
最初のコメントを投稿しよう!