彼女に人は殺せない

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「そろそろ帰ろう」  一瞬の静寂を補完するように会話を繋げて、手を離す。 「そうだね。お腹空いちゃった」 「食べすぎなんだよ君は」  鞄を持って教室を出た。むわりとした熱気を頬で押し退けながら、二人で職員室に向かう。  ノックを二回。ペンキの剥げた引き戸を引いて、生徒が入れるラインぎりぎりで声を出す。 「失礼します、二年一組の三澄夏目です」  これがいつも最後まで教室に残る、僕らのさよならの挨拶だった。 「教室の鍵を返しに来ました」  こうして僕らの桜探しの夏が始まった。  雪見は桜を探して、雪の秘密を探ろうとしている。全ては理想的な現実のために。  一方で僕の目的は別にあった。  雪見蛍の矛盾の息を止める。彼女の反吐が出るような理想を殺せるのは、きっと雪の中に佇む孤木だけなのだろう。  あの桜だけはなんとなく、彼女の理想に反しているような気がした。  *  二百五十三段の階段は、セミの時雨に沈んでいた。  山の上に建つ高校だから、麓へ降りる階段は自然を切り抜いたトンネルのようになっている。 「夏目はチャリ帰り?」  伸びきったシダ植物を踏まないように飛び越えて、雪見が尋ねてきた。 「電車だよ。まだ雪が残ってるから」 「私はチャリだ」 「そう、じゃあここまでだね」  階段を降りきる。裏門を抜けようとして、けれど次の一歩は踏み込めなかった。  振り返ると、雪見が僕の腕を掴んでいる。 「どうかした?」 「私、チャリだよ」  二年用の駐輪スペースに向かうはずの雪見が、階段の麓から僕を見つめていた。  意図が読めない。 「雪見が自転車になったのか?」 「違うよ。でもキミを後ろに乗せて走ることは出来る」 「僕は重いよ」 「大丈夫、バスケで鍛えてるから」  君がバスケ部だったのは去年までの話だろうに。  指摘する間もなく、雪見が僕の腕を掴んで引っ張ってくる。  彼女の眠たげな表情からは何も読み取れない。こんな時に限って考えが読めないのだから、雪見はズルいと思った。 「小夜電って高いでしょ。それならニケツの方がよくないかな、って」 「それはまあ、確かにそうだけど」  JRも通らない田舎で、僕らが高校に通うには一本のローカル線に乗っていくしかない。  小夜ヶ丘電鉄。たしか日本で三番目に運賃が高い路線で、たった十五分程度の道のりに290円が必要になる。  バイト禁止の高校生には痛い出費だ。 「でも、ニケツするなら僕が漕ぐよ」 「おーおー、私より背が低いクセに吼えるねぇ、ナツメちゃん」 「たった四センチで調子に乗らないで欲しいね。僕は平均だ」  彼女の身長が伸びたのは、中学に入ってからだった。
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