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確かその先には、一本の桜の古木があった。当然今は咲いていないはずだ。
「俺の服についてた」
「まさか、今は夏ですよ? しかも雪だって降ってる」
「嘘臭ぇことの方が、世の中には現実として存在しやすいんだ」
現に今、雪は夏に降っている。
若さんにそう言われてしまえば、どうしてか納得してしまう。彼の言葉には不思議な説得力があった。
「大丈夫だ。じきにやむ」
直感的に、雪の事だと思った。
「わかるんですか?」
「ああ」
若さんが立ち上がる。風が吹く。
まるで彼を呼んでいるように。風は、桜の方から吹いていた。
「そろそろ行くわ」
「どこに?」とは聞かなかった。
若さんはいつも一人で、ふらりとどこかに消えてしまう。猫のようで、旅人のような人だ。猫も旅人も、自由でなくちゃいけない。
「夏目は帰れよ」
「はい。またバイト誘ってくださいよ」
「物好きだな」
また今度な。
口許だけで笑って、若さんが歩き出す。離れていくその背中を、僕はベンチから見送った。
もう少しだけ、こうしていようと思った。
深い理由はない。そもそも、僕がこの公園に来た理由も思い出せない。
ただ、若さんがやむと言うのなら、もう少しだけこの雪を眺めていようと思った。
空が顔色を変えたのは、若さんの姿が見えなくなったしばらく後だった。
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