50人が本棚に入れています
本棚に追加
「人のせいにすんなよ、卑怯者!」
飛びかかった。
肩と髪の毛を掴んで、空き教室の窓に叩きつける。
ベキン、と折れるような音を立ててガラスが割れる。窓枠を外れた磨りガラスが、床に落ちてようやくガラスらしい音がした。
もう、野次馬の喧騒は耳に入ってこなかった。呆気にとられていたのかもしれない。
後頭部を押さえて呻く亜嶋の首もとに、落ちなかった窓枠のガラス片を宛がう。
野次馬には聞こえない声で囁く。
「ごめんね。でもこのまま雪見に会わせたら、君は殺されてたかもしれないから」
確信があった。彼女ならやりかねない。
ウドの報復に、イジメっ子をジャングルジムから叩き落とそうとする雪見なら。
今後こそ、彼女は人を殺すんじゃないかと思った。
雪見に罪を負わせる訳にはいかない。
「三澄!」
名前を呼ばれる。
違和感。先生の声じゃない。
目線で声を探す。
野次馬を掻き分けて飛び出したのは、雪見蛍だった。
彼女が何かを言おうとするより早く、生徒指導の体育教師が現れて僕を廊下に叩きつける。
「何やってんだお前! 殺す気か!?」
教師の膝が、僕の背骨を踏みつけた。
空っぽの息が飛び出す。次の呼吸は出来なかった。
僕は薄れていく意識の中で、壁に寄りかかって座り込む亜嶋を見る。彼は怯えた目で雪見を見ていた。
僕は笑う。意識はそこで途切れた。
僕は一週間の出席停止処分になった。
亜嶋は後頭部を少し切っただけで済んだらしい。
雪見が発端となったその事件は、喧嘩として処分された。
野次馬の一人が、亜嶋が血の着いたカッターを持っていたこと。僕が左手から出血していたことを証言したからだ。
「どうして」
三日後にプリントを届けに来た雪見が、ひそめるような声で言った。
僕はたぶん、答えなかったと思う。彼女の言葉が、彼女自身に向けられている風に聞こえたから。
「雪見は優しいな。こんな頭のおかしな奴の見舞いに来てくれるなんて」
だから僕は、聞こえなかったフリをした。
雪見が顔を上げる。
その時初めて、僕はグレーの瞳に涙を見た。
「──私がやるはずだったんだ」
それが、僕が雪見を理解した瞬間だった。
彼女は優しいから理想が高いのではない。理想を貫くために、優しさを身に付けてしまったのだ。
それはただの怪物だった。
*
あれから三年が経って、亜嶋は県外に進学した。
人を殺しかけた僕は、もうあの時のような無茶はしないと誓って。
そして人を殺せなかった雪見は、理想のために優しい劇毒を作ろうとしている。
最初のコメントを投稿しよう!