僕は人を殺さなかった

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「人のせいにすんなよ、卑怯者!」  飛びかかった。  肩と髪の毛を掴んで、空き教室の窓に叩きつける。  ベキン、と折れるような音を立ててガラスが割れる。窓枠を外れた磨りガラスが、床に落ちてようやくガラスらしい音がした。  もう、野次馬の喧騒は耳に入ってこなかった。呆気にとられていたのかもしれない。  後頭部を押さえて呻く亜嶋の首もとに、落ちなかった窓枠のガラス片を宛がう。  野次馬には聞こえない声で囁く。 「ごめんね。でもこのまま雪見に会わせたら、君は殺されてたかもしれないから」  確信があった。彼女ならやりかねない。  ウドの報復に、イジメっ子をジャングルジムから叩き落とそうとする雪見なら。  今後こそ、彼女は人を殺すんじゃないかと思った。  雪見に罪を負わせる訳にはいかない。 「三澄!」  名前を呼ばれる。  違和感。先生の声じゃない。  目線で声を探す。  野次馬を掻き分けて飛び出したのは、雪見蛍だった。  彼女が何かを言おうとするより早く、生徒指導の体育教師が現れて僕を廊下に叩きつける。 「何やってんだお前! 殺す気か!?」  教師の膝が、僕の背骨を踏みつけた。  空っぽの息が飛び出す。次の呼吸は出来なかった。  僕は薄れていく意識の中で、壁に寄りかかって座り込む亜嶋を見る。彼は怯えた目で雪見を見ていた。  僕は笑う。意識はそこで途切れた。  僕は一週間の出席停止処分になった。  亜嶋は後頭部を少し切っただけで済んだらしい。  雪見が発端となったその事件は、喧嘩として処分された。  野次馬の一人が、亜嶋が血の着いたカッターを持っていたこと。僕が左手から出血していたことを証言したからだ。 「どうして」  三日後にプリントを届けに来た雪見が、ひそめるような声で言った。  僕はたぶん、答えなかったと思う。彼女の言葉が、彼女自身に向けられている風に聞こえたから。 「雪見は優しいな。こんな頭のおかしな奴の見舞いに来てくれるなんて」  だから僕は、聞こえなかったフリをした。  雪見が顔を上げる。  その時初めて、僕はグレーの瞳に涙を見た。 「──私がやるはずだったんだ」  それが、僕が雪見を理解した瞬間だった。  彼女は優しいから理想が高いのではない。のだ。  それはただの怪物だった。  *  あれから三年が経って、亜嶋は県外に進学した。  人を殺しかけた僕は、もうあの時のような無茶はしないと誓って。  そして人を殺せなかった雪見は、理想のために優しい劇毒を作ろうとしている。
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