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今日、僕の家に人はいない。
母は単身赴任の父に会いに東京へ行った。この二日ほどは帰らない。
空っぽの家に一人は僕だって寂しい。雪見が来ても大した問題はない。
唯一の問題は、僕の心臓が唇に近いところで鼓動していることだった。
「ここだよ」
口を開けば鼓動が聞こえてしまいそうで、家に着くまでずっと黙っていた。
第一声が少しだけ上擦る。
「お邪魔します」
雪見が律儀に言った。
靴を揃えて上がり、二階の僕の部屋へ。ヒグラシの声は死んでいる。
何もかも、雪が吸い込んでしまったに違いない。
部屋に腰を落ち着けても、僕の臆病だけが音を生んでいた。
これまで避けていた気持ちが、ツケを支払いにでもやってきたのだろう。
「別に、取って食いやしないよ」
雪見が苦笑を浮かべるまでの十分ほど、沈黙が降り積もっていた。
ようやく僕も笑う。
「流石だね雪見は。いつだって僕より男らしい」
「それは女の子に向ける台詞じゃないでしょ、もー」
困ったように眉を下げて、雪見が笑う。ウドの事件以降、初めて見る顔だった。
「ごめん、尊敬してるって言いたかったんだよ」
「嫌いなくせに?」
ふいに距離が縮まった。
身を乗り出した雪見の顔が、息のかかる距離で僕を覗き込む。
どこか甘い香りがした。
「三澄は、私のこと嫌いなんでしょ?」
「そんなことはないよ」
「好きでもないってこと?」
雪見の目は潤んでいた。
胸の底でサイダーの弾けるような音がして、なんだか無性に外へ出たくなる。
セミ時雨も吸い込んでしまう雪なら、この落ち着かない鼓動もなかったことにしてくれるに違いない。
「違う。君といると心地がいい」
けれど現実はそう上手くはいかなくて。動けなくなった体を誤魔化すように、目を逸らして僕は言った。
「これは好意だよ。それは間違いない」
ひどく苛立つ。こんな言葉でしか、お茶を濁せない自分に。
好きと言うのはきっと簡単だった。だって、たったの二文字だ。ただ、好きを伝えるのは、何よりも難しいと思う。
「好きだよ」
だからその言葉には、なんとなく意味が籠っていないような気がした。
雪見が身を引く。諦めたような笑顔で、首をかしげる。
「どの種類の?」
僕はゾッとした。それは意趣返しだった。
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